02 教えたいこと: 2009年8月アーカイブ

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追悼 函館大妻高等学校 外山茂樹校長先生(7月27日撮影)

ずいぶんと涙を流してしまった。
人前でだらしなく泣いて、でも止めようがなくて、ようやく三日たった。
僕はわずか8年半という短いお付き合いだったが、
正直、ずいぶんと大きな存在を失ったという思いを強くしている。
それは、ご家族、ご親族、学校関係者、
そして、校長先生を知る多くの人たちも、同じ思いを抱いていることだろう。
しかし、それよりもなによりも、僕は悲しくて切なくて寂しくて仕方ない。
胸に穴があいた。確実に。いまは、それをふさぐすべがわからない。

  8月24日、信じられないことだが、
  函館大妻高等学校の外山茂樹校長先生が急死された。
  6月に還暦を迎えたばかり。
  突然の入院から1週間。あまりに駆け足すぎだ。

その日、15時半ころ、僕は第一報にふれた。
「高山くん聞いているか? 外山さんが亡くなられたらしいぞ。」
何を言っているのかわからなかった。すぐに聞き返す。
「なに、どういうこと? 前の理事長先生のことですか?」
「違う違う。しげき、茂樹、校長先生だよ。まだ、詳しいことはわからないんだが。」
なんだそれ。そんなわけないだろ。
どういうことなんだ。ぐるぐるといろんなことが頭をめぐる。
「とにかく、僕は学校に電話をしてみますので。」
激しく咳き込んで18日に入院。学校でも限られた人しかお見舞いができていない。
電話の向こうで事務長先生が説明してくれる。
「あの、情報が錯綜していまして。では、今も入院加療中ということですね?」
そうです。大丈夫です。その言葉を聞いて電話を切る。
しかし、確かなルートから、校長先生の急死を裏付ける続報が届く。
嘘だろう。なぜ。そんな理不尽ってあるだろうか。信じられない。

ご家族だけの葬儀。公表はそれを終えてからということに。
非公式に伝え聞いていたが、やはり、どうしても我慢できなくなって、
翌日の昼過ぎに学校を訪れてしまった。
「ごめんなさいね。昨日、あの時点では何も言えなくて。」
事務長先生と短い言葉を交わすうちに、
なにかがこみあげてきて、そして涙になってこぼれた。こらえきれなかった。

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卒業生の皆さんと、生徒が作った弁当を食べる。(5月30日撮影)

背伸びをして「ものかき」と名乗ってはいるが、つまりは一介の売文の徒であり、
社会一般で見るところでは、単なる出入りの業者でしかないような僕に、
しかも親子ほどの年齢差(実際に校長先生と僕の母親は同い年)がありながら、
校長先生はいつでも気さくに話をしてくれた。僕の話にも耳を傾けてくれた。

「どーだ、どーなった。」「いやぁ、忙しい忙しい。」「悪い悪い、待たせたね。」
いつも、このいずれかを口にしながら、校長先生はせかせかと応接室に入ってくる。
仕事の打ち合わせでは、提案やアドバイスを歓迎する一方で、
「な、やっぱり、これが良いな。な。」と、ご自身の考えをしっかりと持っている人だった。
学校運営はもちろんのこと、多くの公職・要職に就かれていたが、
「(伝統を)守ること」と「(伝統を)つくること」を同時にまっとうできる希有な人材であったと思う。
過去を尋ね知って、いまを多角的に分析し、そして将来の中長期的な見通しをたてる。
校長先生はもともと経済を学んだ研究者であり、
外山家の三代目として函館大妻高校に入る以前は、大学で経済学を教えていた。
教育者としての使命と重責を果たしながら、
経営者もしくは経済学者としての強い自負を持っていたのではないだろうか。

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庭園での観桜会。植樹を手伝う校長先生。(5月17日撮影)

僕は校長先生との長話が大好きだった。いつも、お菓子を食べながら。
音楽、とくにJazzを愛していた。名盤や必聴盤を教えてもらった。
教育や福祉における切実な問題をいくつも聞かせてくれた。
政治、国政から市政まで、縦横に意見を持っていた。
もっとも、立場上それを公にすることはなかったと思うが。
読者家でもあった。僕が読んだ本は、ほとんど先に読み終えていた。
経済学の話は、ずいぶんわかりやすくておもしろかった。
市民向けに入門的な経済学の講座を開いたらどうかと何度かすすめると、
いまはまだ忙しいから、と満更でもなさそうだった。
学校の将来のこと。
そして、ふたりの息子さんのこと。

僕は失ってしまった。
怠惰な僕の精神を刺激してくれる大切な人のひとりを。
僕の仕事を認めて、評価して、励ましてくれる大切な人のひとりを。
寂しくて悲しくて悔しくて切なくて辛い。

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体験入学の中学生に笑顔で声をかける校長先生。(昨年10月13日撮影)

校長先生が成し遂げてきた数多くの事績、
この街に残した大きな成果の数々は、
きっとそれぞれの関係者が語ってくれることになるだろう。

校長先生との個人的な思い出をひとつひとつ書き始めたらきりがない。
それに、校長先生と関わった人たちは、
誰もがそれぞれに大切な記憶をお持ちのことと思う。
いつか、そんな皆さんのお話を聞かせてもらいたい。

ひとつだけ。
先ごろ僕が呑気に入院したとき、わざわざ病室までお見舞いに来ていただいた。
そして、校長先生は、こう言って励ましてくれた。
「まだまだ、がんばってもらわないといけないから。しっかり治すように。」
そうですね。あと10年ちょっと。百周年まではがんばります。
そう言って笑いあったのは、ついこの間のことだと言うのに。

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全校生徒・教職員が整列する中を、
校長先生の棺を乗せた霊柩車が校庭を一周した。(8月26日8時40分撮影)

校長先生、ずいぶんといろんなものを残していかれましたね。
たくさんの種をまき、いくつもの苗が芽吹き、これから次々と実がなるというのに。
でも、いちばん大切にされていた学校は、
これからもたくさんの新しい息吹を生んでいくに違いありません。
校長先生の思いは、ずっとずっと消えることはないと、僕は思い信じています。

たぶん、そちらでも、これまでと同じようにいろいろと頼まれて、
断り切れずに忙しくされているのかも知れません。きっと、そうでしょう。校長先生らしいもの。
そうだ。それから、ピアノの練習を忘れないように。
戦前から学校で大切にされてきたピアノの修理が終わったら、
校長先生みずから校歌の伴奏を披露すると言っていたじゃないですか。
「しばらく弾いていないけど、私の腕前はけっこうなものなんだよ。」

校長先生。
本当に、本当に、早すぎますよ。

2009年8月27日 ものかき工房 高山潤


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食物健康科1年生の戴帽式を見守る校長先生。(6月2日撮影)


【追記】
※9月18日(金)13時から、函館大妻高校にて学園葬がおこなわれます。お問い合わせは学校まで。
※葬儀について。「学校の授業や行事に迷惑をかけることがあってはならない」という校長先生のお考え(ご遺言)を尊重し、ご家族のみで葬儀をとりおこなったということです。
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◆米軍機によって撮影された昭和20(1945)年7月14日の「函館空襲」。
◆先代の函館駅舎や棒二森屋本館(屋上に対空高射砲を設置)などが見える。

(以前、函館市市史編さん室で複写提供してもらった写真。いまはたぶん函館市中央図書館に所蔵されているはず。)

7月14日・15日の北海道大空襲では、青函連絡船をはじめとする青函航路にあった船舶へ激しい攻撃がおこなわれた。函館では連絡船桟橋および函館駅などが爆撃された。函館ドック周辺、駅前(大門)の商店街などにも爆弾投下と機銃掃射があり、この空襲による死者が出ている。つい先ごろも、浅利政俊さんの丹念な調査により、下海岸方面(旧戸井町など)での空襲の死者が新たに確認されている。

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敗戦記念日ということで、
戦後60年の年に書いた文章(8月15日に広告として掲載)を再録。
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敗戦の記念日に

 むかし、祖母は地球儀をくるくる回しながら、小学生の私にこんな話をしました。
 「日本は小さな国だけど、いちばん良い国なんだよ。わかるかい。だってね、戦争のない国なんだから。戦争に負けて、たくさん人が死んで、それでもう、戦争は絶対しないって決めたのさ。だから、日本は戦争に負けて良かったんだね。」
 その言葉を聞いた私は、戦争に負けた日本・戦争をしないと決めた日本を誇りに思い、自分が日本の国民であることをすごく嬉しく感じたのでした。
 日本が戦争へ向かった背景には、複雑な理由がからみ合い、単純に「誰かが悪かった」「何かが悪かった」と断定できないのかも知れません。しかし、他国を 侵略したこと、その国の人たちから尊厳を奪った数々の行為には、それを正当化するいかなる理由もありません。また逆に、巻き込まれるしかなかった多数の日 本人を、非道な爆撃によって苦しめた国も、それを正しい行為だったとは考えてほしくはありません。戦争の当事者はどんな立場であれ、それぞれの犯した過ちに対して真摯に反省を重ね、二度と同じ間違いを犯さないための努力を続けるべきだと思います。
 人を殺すことも、人に殺されることも、どちらもひじょうに辛いことであると、私は想像します。だからこそ、私はそれが「戦争によって辛い思いなどしたくない」というだけの理由ではありますが、平和を求め訴えることに躊躇はしません。

ものかき工房 高山潤
開港記念日はお休みだった。小学校(低学年)のときの昔話だけど。
粗忽な子どもだった僕は、大人になってから「開港」だったんだと気づいた。
函館市民にとって、「開港」という歴史の舞台にたったことは、
やはり誇るべきことなのだと思う。

8月1日から4日まで、恒例の「函館港まつり」が開催されていた。
ごく幼いころには家族で見に来ていた記憶がある。
当時は「1万人パレード」という名前がついていたはず。
中高生のころは、祭りとかイベントには興味がなかったので、
お祭に参加したことも見物したこともなかった。
函館でお仕事をするようになってからは、山車をひくトラックを運転したり、
お祭期間中に里帰りした友人と飲みに出かけたり、と。
いずれにしろ消極的な関わりあい方ではあった。
そのわりに、毎年「港まつり」の記事を書いていたりするわけだが。

海岸町の仕事場から、駅前・大門までは歩いて10分ほどである。
夕方5時すぎ、妻とふたりで久しぶりに祭り見物をしてみることにした。

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◆歩行者天国になった電車通り。パレードのときはもっと人垣ができていたのかな。
◆子どものころの記憶だと、十重二十重に観客が道路を取り囲んでいたものだが。

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◆人混み。北洋漁業で盛況だった時代の函館は、毎夜こんな風景だったんだろうか。
◆当時の昔語りを聞くのが好きだ。良くも悪くも、やっぱり函館は港街なんだなと思う。

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◆出店の人たちは、一様に威勢が良くなかったな。最終日ってことで疲れてたんだろうか。
◆子ども相手に、ずいぶんと態度の悪い店員もいたな。脅すなよ。

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◆祭りの雑踏から一本だけ小路に踏み込むと静謐な風景がある。
◆まだ「栴檀」ってあったんだ。いまも「いもまんじゅう」はあるのかしら。

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◆蔵。

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◆大門の御輿だそうで。かつぎ手にお知り合いがいた。

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◆港踊り・イカ踊りの自由参加会場。

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◆やっぱり、指先の表現が違うわけですよ。あたしゃ惚れ惚れいたしました。

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◆「函館港おどり」。歌詞が秀逸でして。
◆♪踊る心はヤッコラセノセ 波まかせ波まかせ〜
◆もう、港町の本領と本質を見事に表現しております。

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◆祭りの笑顔は無条件に美しい。

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◆こちらは「函館いか踊り」。たいへんバカな踊りで楽しい。

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◆仕事場のご近所では、町内会のお祭が開かれていた。
◆国道5号をまたいで中央ふ頭につながる高架橋の下。

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◆なにをやっているかと覗いてみたら、ラムネの早飲みでした。



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以前どこかで書いた記事の元原稿
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名曲解説「函館港おどり」

♪サアサ ウイタ ウイタ 踊りゃんせ
 踊る心は ヤッコラセノセ
 波まかせ 波まかせぇ

 名曲「はこだて賛歌」(1973年=昭和48年、函館市と旧亀田市の合併を記念して製作)とともに、函館人の心をゆさぶる歌「函館港おどり」。軽妙な三味線の音階と港街らしい投げやりな(もしくは諦観が漂う)お囃子(はやし:冒頭の歌詞)が印象的だ。ちなみに、なぜ市民の心がゆさぶられるかというと、「賛歌」は燃やせるゴミの収集(「旧四町村をふくむ全市内でゴミ収集車週2回流れます」函館市環境部)を告げ、「港おどり」はもちろん夏まつりの到来を告げるからだ。
 さて、この「函館港おどり」という曲は、「函館港まつり」の開催にあわせて製作されたものである。つまり、第1回開催の1935(昭和10)年から函館の街に響いてきた伝統があるわけだ。かつての歌詞では、「♪港開けて ヤレコラショ 喜の字の祝ひ」となっているが、現行の歌詞では「百年(ももせ)の祝い」となっている。
 これは、第1回の開催年が函館開港から77年目(おそらく満年齢の数え方)で、「喜寿の祝い」であったことを意味していると思われる。戦後、開港100周年を前にした1958(昭和33)年にプレスされたレコードでは、すでに歌詞が「百年の祝い」に変わっている。

◆参考資料/CDアルバム「函館港祭り曲集」(PLUS1)
『函館物語 ー 昭和の函館から ー 』を読んだ。

  写真・文:金丸大作
  序 文:谷村志穂
  発行日:平成21年7月1日
  発 行:五稜出版社
  印 刷:三和印刷
  定 価:2900円(税込)

記録写真家で郷土史家の金丸大作さんの写真集。
帯には「函館開港150周年記念連携事業」と記載されている。

約160ページで、そのうちの6割がモノクロ写真だ。
ぱらぱらとめくり読む。前半から中ほどにかけてのモノクロ写真は、僕が生まれる前の函館。
高度成長期を迎える前の函館の「懐かしい」風景がそこにある。
街角で遊ぶ子どもたち、北洋漁業の船団、イカ襖のある風景、砂山、寒川、かつての姿。
過去に見たことがある写真もあるが、どれも「暮らし」を伝える素晴らしいカットが厳選されている。

ところが、だ。

後半のカラーページをめくっていて、どうも違和感を覚えた。
なんだろう。なんだろうか。
幾度か見直して気がついた。これ、キャプション(写真説明)にある年代がデタラメなのである。
ざっと見たところで、15カット以上にあきらかな間違いがあると断言できる。

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◆写真説明の内容に疑念を抱いた箇所に付せんを挟んでみた。

人びとの服装、街の風景(道路や看板)、自動車などから、
高度成長期以降(昭和40年代末〜昭和末期)に撮影されたと確定できる写真が、
昭和30年代の写真として紹介されている。

例えば・・・

金森倉庫の前に「函館57」ナンバーを付けた自動車が写っているカット(132p 55)。
キャプションは昭和38年9月。そんなわけない。
かつてのナンバープレートは「函」ひと文字表示で、
「函館」表記となったのは昭和63(1988)年以降である。

函館にあった映画館「巴座」の写真(136p 63)。昭和39年10月との説明。
正面に掲げられた上映中の映画を伝える看板には「アラジン」、そして伴映に「奇跡の旅」とある。
前者はディズニーのアニメ映画、
後者はマイケル.J.フォックスなどが声優として出演。
これらは平成5(1993)年に劇場公開(同時上映)された映画である。

お次はもっとお粗末。

昭和57年2月、八幡坂から見た冬の港と説明された写真(149p 84)。
坂上から函館港を見おろす定番のカット。その正面には青函連絡船「摩周丸」の姿。
夜景のカットのため摩周丸はライトアップされている。
ちょっと、待てよ。青函連絡船が廃止されたのは昭和63(1988)年である。
摩周丸は昭和63年3月13日(廃止の日)まで運航している。

そして、極めつけ。

函館山山頂から見おろした清々しい街の風景(145p 78)。
撮影日は昭和64年6月。
なんてことだろう!
昭和は昭和64年1月7日で終わっているのである。


ちょっと信じがたい。あまりにひどい。
この本の編集過程で、いったい何がおこったんだろうか。
せっかくの良書が台無しである。
これほど間違いが多いと、書籍全体が信用できなくなる。
2900円。お金をいただく仕事になっていない。
いや、仮に趣味の出版だったとしても、このような内容では出版の意義がない。
この書籍の間違いが正されず、もしこのまま流通し続けるなら、
意義どころか迷惑な代物と言わざる得ない。

近日、著者に直接お聞きして真相を確かめるつもりであるが、
もしかしたら、この書籍の後半部分は著者の手によるものではないかも知れない。
改めて言うが、著者がこのような間違いを犯すとは信じがたい。


けっきょくそれかよって言われちゃいそうだけど、
金返せって話でしょ。これじゃあ。
もちろん、僕はしっかり蔵書しますけどね。報道によれば発行部数は1000部。

プロフィール

高山潤
函館市および道南圏(渡島・檜山)を拠点に活動するフリーランスのライター、編集者、版元、TVディレクター、奥尻島旅人。元C型肝炎患者(抗ウィルス治療でウィルス再燃、インターフェロン・リバビリン併用療法でウィルス消滅で寛解)、2型糖尿病患者(慢性高血糖症・DM・2009年6月より療養中)。酒豪。函館市(亀田地区)出身、第一次オイルショックの年に生まれる。父母はいわゆる団塊世代。取材活動のテーマは、民衆史(色川史学)を軸にした人・街・暮らしのルポルタージュ、地域の文化や歴史の再発見、身近な話題や出来事への驚きと感動。詳しくはWEBサイト「ものかき工房」にて。NCV「函館酒場寄港」案内人、NCV「函館図鑑」調査員(企画・構成・取材・出演・ナレーション)。


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