備忘録(一)

2012年3月17日(土)

10時30分、入院。
糖尿病では2回目。ここ3年で4回目になる。
いつもの函館中央病院。

食事は糖尿病の治療食。
血圧の薬も飲んでいるので減塩メニュー。23単位(1840kcal)。

120317-DSC_5313.jpg
昼食。うまい。
果物アレルギーが伝わっていないのか、リンゴが付いていた。
リンゴと瓜系はいちばん症状が重い(のどが痒くなる)ので残す。

120317-DSC_5315.jpg
晩飯。うまい。ビール飲めるくらい。
ただし、ご飯の炊き加減を失敗している。
浸水、水加減、蒸らし、そのいずれかが足りなかったようだ。
胃にもたれた。
また、果物が付いている。




【自分史草稿】-----------

私は1973(昭和48)年の秋に生まれた。長男である。

両親はその前年の12月、松前町館浜にある町民センターで結婚式を挙げた。
父と母の出会いは、松前町へ向かう列車の中だったと聞いている。
この国鉄松前線は、1988(昭和63)年に廃止された。

母は松前の桜を見に行くために乗車したという。
札幌からのひとり旅だった。
そんなこと聞いてみたことはないが、たぶん失恋旅行でもしていたのだろう。
当時の父は、遠洋漁業の乗組員だったはずなので、
出漁期の合間に実家のある松前に帰っていたのかも知れない。
出会いのきっかけは「ナンパ」である。
父は26歳くらい、母は23歳くらいだったはずだ。

父は松前駅で降りたら、メシでも食おうと誘ったらしい。
ちなみに、私は妻を最初のデート的なものに誘うとき、
おいしいソフトクリームを食べに行こう、と声をかけた。ま、親子なんだな。

記憶はあいまいだが、たしか函館から松前まで3時間くらいの車中だと思う。
きっと、父は必死だったと思う。このナンパを成功させるために。
若いってのは良いことだ。

父は松前駅前の寿司屋に連れて行った。
そして、「好きなものを食べてよ」と言い残し、母を店に置き去りにしたという。
戸惑いつつ、しかし、あれこれと寿司を食べるわけにも行かず。
ただただ、カウンターに座り続ける母。
そのころ、父は大急ぎで館浜の実家に向かっていたという。
寿司を食べるお金がなかったからだ。
松前駅から実家のある館浜の部落まで、おそらく10kmくらいある。
どうやって往復したんだろう。
車はないし、バスも不便だろうし、メロスばりに走ったのかも知れない。

どうにかデート資金を確保して、
寿司屋に戻ると、ひと口も食べずに座っている母がいた。
「食べれば良かったのに」と父。
いや、普通は食べないだろう。
というか、席を立って帰っちゃうよな。
そこはやはり、運命というやつなんだろう。
そういうわけで、私が生まれるきっかけとなったわけである。
ちなみに、父は熱々の鍋焼きうどんを注文したらしい。
のちに母は、寿司屋で勢いよくうどんを食べるのが、不思議で仕方なかったと述懐している。

父は結婚に際して、長く家を空けることになる外航船(外国を行き来する船)を降りて、
函館と青森を結ぶ民間フェリー会社に、機関員として就職した。
そして、ふたりは函館市に新居を借りた。
たしか、最初は大森町、続いて末広町とか言っていたはずだ。
トイレの汚いアパートだったらしい。

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://www.monokaki-0138.jp/hakodate/mt-tb.cgi/287

コメントする

プロフィール

高山潤
函館市および道南圏(渡島・檜山)を拠点に活動するフリーランスのライター、編集者、版元、TVディレクター、奥尻島旅人。元C型肝炎患者(抗ウィルス治療でウィルス再燃、インターフェロン・リバビリン併用療法でウィルス消滅で寛解)、2型糖尿病患者(慢性高血糖症・DM・2009年6月より療養中)。酒豪。函館市(亀田地区)出身、第一次オイルショックの年に生まれる。父母はいわゆる団塊世代。取材活動のテーマは、民衆史(色川史学)を軸にした人・街・暮らしのルポルタージュ、地域の文化や歴史の再発見、身近な話題や出来事への驚きと感動。詳しくはWEBサイト「ものかき工房」にて。NCV「函館酒場寄港」案内人、NCV「函館図鑑」調査員(企画・構成・取材・出演・ナレーション)。


ツイッター

アーカイブ