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3月21日(水)

五日目の函館中央病院。
窓からの眺め、雪景色の吹雪模様で驚く。
血圧127/78、体温35.5度。

午前中は腹部エコー検査のために絶食。
昨夜21時から水分もとっていない。

10時半、主治医の回診。
検査データの提供についてお願いすると、
こころよく応じてくれる。

11時ころ検査室に呼ばれて、
お腹にローションをぬられて、撮影端子をぐりぐり押しつけられる。

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待望の昼食/ハヤシライス、ポテトとタマゴのサラダ。なんとなく、著名なネズミのシルエットに。


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皿底にはパリパリにアルファ化した米が。食べられないので残念だが残す。

なんだろう。炊いたご飯が足りなくなったんだろうか。
こういう当たりを引くのが、俺らしくて満足。

14時、糖尿病患者に向けた集団栄養指導。
摂取カロリーの把握と食事内容(「食物交換」方式を使う)のレクチャー。
基本的な事項なので、とくに新しい情報は得られなかった。

まじめに取り組むと、料理を見ただけで(計量をしなくても)
カロリー量がわかってくるもんだ。
ただし、慣れとゆるみで、計測目盛りが甘くなってくる。
「慣れてきたら、毎回の計測は必要ありません。
 ただし、確認のために月1回くらい計り直してみましょう。」
この指導には、たいへん納得。

あちらの都合で、運動療法の時間がなくなりキャンセルに。
すこし身体を動かしたかったので、散歩に出かけることにした。
過去の入院では、そのつど外出届を提出して、主治医の許可を取り、
それでようやく外出するという流れだった。
今回は主治医から「ご自由に」という言葉があるのと、
病棟の看護師長の柔軟な対応によって、
声かけだけで出かけられることになった。
まぁ、重症ではない、ということもあるだろう。

街を歩くと情報(看板とか音とか香りとか)があふれていて、
思考が刺激されるので良い。
仕事のこととか、いろいろたくさん着想がわいてきて楽しかった。
歩道に雪が残り、けっこう歩きにくい。
湯の川まで歩いて、かるく汗をかいて帰ってくる。

向かいベッドにいる患者は、どうやら父と同郷らしい。
声をかけて、いろいろ話をしてみると、
(田舎なので当然のことながら)わかるわかる、ということになった。

となりの爺さんのところに娘が来る。
お互いに、いろいろぶつぶつ文句を言っているのが聞こえてくる。
 「いやぁーやぁ、タバコ1本くれや」
 「なに言ってんの。意味わかんないわよ」
笑いをこらえるのが大変だった。

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◆晩ご飯/ごはん(195g)、焼き魚(サバ)、すまし汁、鶏そぼろ煮(ほらまたササギだ!)、和え物。薄味羽の俺だが、魚にはしょうゆがあった方が良かったかな。たぶん添付もれじゃないだろうか。







【自分史草稿(五)】-----------

茶の間には「バルカン スパーヒート」 とかいうストーブがあった。
たしか外国製。
でかくてごつくて、さらに灯油をかなり喰うものだったそうだ。
ぺらぺらの隙間だらけの家だったので、
パワフルな暖房が必要だったのだろう。

台所は家の北側に位置して(玄関や茶の間は南面していた)、
たいへん寒かった記憶がある。
食事は台所にあるテーブルで食べた。
そのころは、たいへん食の細い子どもで、
いつも親に隠れて、ごはんやおかずを捨てていた。

急な階段をのぼると、2階には向かい合う部屋がふたつあった。
ひとつは寝室で、大きなベッドと小さなベッドがあった。
この大きなベッドは、引っ越した先の家に現存している。
もうひとつの部屋は、祖母(母の親)の部屋だった。
3月20日(火)

四日目。函館中央病院。
1kg痩せた。便秘が解消されたので、その分とも言える。

 「もう、死んじまいたいの」
 「まー、そんなこと言ってぇー、かんたんに死ねないんだよ」

そんな会話が廊下の向こうから聞こえてくる春分の日。
極楽浄土は彼岸の彼方か。

祝日で検査などもなく、病棟はゆったりしている。

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朝食/ごはん(195g)、味噌汁(大根葉)、温泉たまご、大根とにんじんの煮物、牛乳、減塩しょうゆ。

血圧136/72 体温 35.7度
家にいるときと同じ。

朝からでかい声で電話をしているオッサンがいる。
病棟マナーを逸脱しちゃうのは、男性のほうが多いような気がする。
そして、病状の進行に(精神的に)弱いのも男性だ。

11時過ぎに妻が来院。
4回入院して、妻のお見舞いがあるのは初めてだ。
1階のドトールで、ミラノサンドCをがつがつ食べていた。
こちらは真っ黒のコーヒー。

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昼食/豆ごはん、焼き魚、大根おろし、きゅうり酢の物、三つ葉のおひたし、しょうゆ。

なぜか、ぼくの昼食が手配されていなかったようで、
10分ほど遅れて運ばれてくる。
あわてたのか、減塩しょうゆではなかった。

14時過ぎ、NCVのディレクターが来院。
4月以降の番組企画などを打ち合わせ。
農業体験もののコーナーを立ち上げられるかも知れない。
楽しくなってきた。

昨年の2月から休止している「函館酒場寄港」の話題も。
視聴者アンケートでは、再会のお願いがいまだに寄せられるそうで。
ありがたいことである。ふだん求められることが少ないので嬉しい。
なんだかんだとしゃべりすぎて疲れる。

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晩飯/ごはん(180g)、味噌汁(ふ)、スパゲティー、鶏肉。

今日はコーヒーを飲み過ぎて胃もたれ。
食欲がないが、明日は検査のために午前中は絶食なので、そろそろと箸を付ける。
なんだかんだ言って、きっちり食べた。






入院記録のついでに、むかし話を綴っていますが、
これは僕自身のリハビリとして書いているだけなので、
読んでも役に立たないし、おもしろくもないです。

【自分史草稿(四)】-----------

しばらく、おしゃぶりを咥えていたそうだ。
いまでも、おしゃぶりはゴム色をしているんだろうか。
おしゃぶりを捨ててきなさい、と何度も言われた。
当時はトイレットではなく、ぼっとん便所である。
私は便槽に落ちたおしゃぶりをじっと見つめていたという。

引き戸の玄関を入ると、広めの靴脱ぎスペースがあった。
左手が茶の間へのとびら、右に振り返ると便所のとびら。
正面右手に階段があり、その下に収納スペースがあった。

ここになぜかパチンコ台が置いてあった。
銀色の取っ手を指ではじくタイプのものだ。どこかで拾ってきたんだろう。
チューリップに銀玉が入ると、ちゃんと玉が出て電飾も光った。
私の玩具だったのか、父の玩具だったのか、よくわからない。
おかげさまで、それ以来、私はいままでパチンコをしたことがない。

茶の間は板張りの壁で、床はぎしぎしと音を立てていた。
建て売りの安普請だったのか。
後年(と言っても、この赤川の家には4年ほどしか住んでいない)、
業者が来て床下を点検していたのを覚えている。ひどい状態だったという。
庭に面した大きな窓があり、ガラスにはひび割れがあった。
私が激突したあとだ。

壁には躍動する馬が描かれたカーペットが掲げてあった。
イスタンブールででも買ってきたんだろうか。
このカーペットは、いまも引っ越した先の実家の壁にある。
三畳くらいの大きさなのだが、
実はよくみると一畳分くらいカットされて、つなげてあるのがわかる。
ひまで仕方なかった子どものころ、この絵を何時間も見つめていたっけ。

向かいの姉妹とおままごとをするか、
近所の女の子の家に遊びにいく以外は、
家でトミカを走らせたり、赤い車の絵ばかり描いている子どもだった。
ひとりで、ぶつぶつ、つぶやきながら。
ちなみに、幼稚園までは、すらりと痩せていた。
いかにも、もやしな感じ。
チラシの裏や画用紙に、くねくねと線を引いて、
それに合わせて何台もの車の絵を描いていく。
母はうまいうまいと言って、それを何枚も壁に貼ってくれた。

ガラス張りのサイドボードがあって、
そこには洋酒のミニチュアボトルが並んでいた。
大きなワニの剥製もあった。
父が中南米で漁をしていたとき、お土産で買ってきたもののはずだ。
目玉がビー玉だった。
15センチほどのタツノオトシゴの剥製もあった。
大沼公園で拾ってきたドングリを引き出しにしまっておいたら、
虫がわいてひどいことになっていたのも覚えている。

幼稚園に入る前だと思う。家に刑事が来たことがあった。
車内から財布を盗まれたのだ。
 あとで、近くの中学生の犯行だとわかった。
警察の人が来るよ、と聞いて、窓ガラス越しに来訪を待っていたら、
私服の大人が普通の車でやって来た。
私は残念そうな顔をしていたのだろうか。
その刑事が「パトカーじゃなくてゴメンな」と声をかけてきた。
ここでパトカーを間近で見ていたら、警察官になっていたかも知れない。
2012年3月19日(月)

函館中央病院にて。
糖尿病治療のための食事療法3日目。

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◆朝食/ごはん、冷や奴、味噌汁(わかめ)、つみれとささぎの煮物、牛乳(180ml/120kcal)、減塩しょうゆ。

病院食にはかならず「ささぎ」が入っているな。
保存しやすい食材なのかな。
どうやら、フルーツは出なくなったようだ。

朝9時、秋保先生がわざわざお見舞いにいらっしゃる。
「洞爺丸」本の原稿も大幅に遅れているし申し訳なし。

眼科の検査。
糖尿病による網膜症(単純網膜症)の症状が見つかった。
前回(2年前)の診察ではどうだったかな。
このブログの記事をさかのぼって確認すると、「合併症はナシ」との診断だった。
この半年以外は、きちんと血糖コントロールしていたのだが、
それでも症状はあらわれるようだ。
とは言え、ほとんど気にならない程度だという。いまのところ。
二か月後の診察予約をする。
まるで関係ないが、担当医は好みのタイプだった。

眼科の向かいが泌尿器科なんだが、
そこの外来看護師さんが、たいへん素晴らしい対応をしている。
「足もと悪いところ、ありがとうございます」などと患者に声をかける。
それでも、べったり馴れ合いという感じではない。
患者も「よっ」とか挨拶を交わしている。
きちんと通って、病気を治したい、という気持ちにさせてくれる。

この人に店の接客を任せておけば、ぜったい成功するだろうな。

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◆昼飯:ごはん(195g)、鶏の照り焼き、マカロニとチーズのサラダ、キノコと野菜のホイル焼き、減塩しょうゆ。熱々のホイル焼きに感動。照り焼きもうまし。マカロニは「サラダ」を名乗るくせに炭水化物なんで、食べると損した気分になるんだよな。

隣の爺さんのところに担当医師が回診。
カーテン越しに会話が聞こえてくる。どうやら、ちょいと面倒な病態らしい。
医師が専門用語ばんばんで質問(問診)して、
爺さんは、よくわからないながらも、質問へたどたどしく答える。
しかし、かみ合わない回答に対して、
「それはわかっていますから。そうではなくて・・・」と返す医師。

技術が優秀でもなー。
臨床じゃなくて、研究職にでも行けばよいのに。

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今日は朝から吹雪。

主治医の回診。40秒。
「ヘモグロビンA1cは6.0%でしたよ」と、入院時の血液検査の結果を口頭にて。
他の数値も確認したいから、できれば外来診察のときと同じように、
検査結果を出力印字した用紙をご提供いただきたいところだが。

理学療法士(だったかな)から、リハビリ室で運動療法の説明。
いろいろ質問をしてみる。あんまり質問され慣れていないのか、
さらに後の時間が詰まっているらしく、あちらの口調にだんだんとイラが入ってくる。
聞くとか、見るという行為には、どうしても仕事柄が入ってしまう。
しつこすぎたか、と反省。でも、聞いておきたいことがたくさんあったもんで。
運動の「理論」をいくつか知れて、役立つ時間ではあった。

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◆晩ご飯/ごはん(195g)、味噌汁(キャベツ)、魚の磯焼き(タラかな)、すき焼き風の煮物、減塩しょうゆ。

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フルーツが止まったので、ごはんが増えたようだ。
おかずの分量はどうなんだろうね。

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497g(ごはんと茶碗の重さ) - 319g(茶碗の重さ) = 178g
あんまりきっちり計ってないんだな。ま、誤差の範囲か。

短い原稿を一本、企画書を1本書いて就寝。





【自分史草稿(三)】-----------

隣の家は私塾を開いていた。
脚が悪いおじさんがいて、家の二階で授業をしていた。
机の上にはすごく小さなテレビがあったのを覚えている。
高校生の娘さんがいて、よく遊びに行った。
白いギターを弾いてくれた。いや、白くなかったかも知れない。
ある雨の日、娘さんを学校まで送る車に同乗した。
たくさんのお兄さんお姉さんが、どんどん建物に入っていく。
その人数にすこし怖くなって、出していた顔を引っ込めた記憶がある。
たぶん、あれは東高校だったと思う。

言葉の覚えは、早かったのか遅かったのか。
長男(5歳まで実質的なひとりっ子)だし、たぶん遅かったんじゃないだろうか。
喃語(なんご)を自慢げに話していたらしい。
「ぐちゅぐにゅ、みゅちゅちゃしゅ、にゃにゅぎじびゃー」
「お、潤がまた英語を話しているぞ」
そんな会話を覚えている。
覚えているが、そんなはずはないので、きっとこれは後からつくられた記憶だろう。

私が最初につぶやいた言葉は「赤ブブ」だったそうだ。
赤い車、という意味である。
三つ子(の前だと思うけど)のたましい百まで、ってやつで、
いま乗っている車は真っ赤である。

免許を取った父は車を購入した。
マツダ(東洋工業)のグランドファミリアだったと思う。焦げ茶色だ。
記憶ではヘッドライトは角形だったから、
丸型にモデルチェンジされた昭和50(1975)年以前の前期型だったはずだ。
中古車を買ったのだろう。
車は大好きだったが、
タバコと芳香剤の混じった香りは苦手で、いつも車酔いしていた。

ご近所の車で覚えているのは、ホンダZとホンダシビックだ。
ホンダZには、すごく太った夫婦が、ぎゅうぎゅうになって乗っていた。
シビック(丸型ヘッドライト初代)は隣の家のもの。
なぜか、私はこの車を「敵視」しており、
いつもこっそりフロントバンパーに立ち小便攻撃を加えていた。
あるとき、「けっこう錆びるのが早いもんだ」という会話を聞いて、
目標の達成と、露見を恐れて、攻撃を止めにした。

玩具の多くは、車をモチーフにしたものだった。
またがって乗り回すもの。
  座席部分が上にパカリと開いて、収納スペースがあるやつだ。
ミニカー。いくつかのメーカーがあったが、やはりトミカがお気に入りだった。
あれはドアが開くし、車内も再現されていたからね。
大好きだったのはフェアレディーZである。
通常タイプとパトロールカータイプを、何台も所有していた。
ロングノーズが格好良かった。
フロントライト部分に、カバーがあるものと無いものがあって、
カバー付きの方がお好みだった。いまはカバー無しの初期型の方が好みである。
このカバー部分に、ちょくちょく髪の毛が挟まるんだよな。
お年玉で、少し大きめの完成模型(ラリー仕様)を購入したのを覚えている。
「また、その車なの?」と母に言われた。
2012年3月18(日)

入院2日目。函館中央病院にて。

本日はターゲス(1日に7回採血して、血糖値の動きを見る検査)。
朝から採決失敗で、手の甲に二度の針刺し。痛い。
痩せると血管が見えてくるのだが、体重が増加した状態だと
血管が見えないし、どうやら「逃げる」らしい。

で、結局のところ7回の採血のために、注射針を計10回刺した。
痛い目に遭うと、やっぱり体重は落とした方が良いな、と痛感する。

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◆朝食/ごはん(180g)、味噌汁(大根)、白菜おかか和え、竹輪と高野豆腐の煮物、味のり。480kcalくらいかな。

病棟の廊下に1週間の献立表が掲示してあり、
カロリー・塩分・たんぱく質が明記されている。
これはたいへん参考にある。
しかし、治療食(糖尿病でカロリー制限とか、腎臓病でたんぱく質制限とか)の場合は、
患者によって内容が異なるので、メニュー表とすべて同じというわけではない。

最初の入院時(2009年6月)には、献立表の掲示がなかった。
翌年2月に、五稜郭病院に腎臓の検査で入院した際には、
食事トレイに内容(カロリー・塩分・たんぱく質を表記)を記載した紙が添付され、
より丁寧で使いやすかった。

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◆昼食/食パン(2枚)、たまご焼き、ソーセージ、牛乳(180ml)、サラダ、りんごジャム、減塩しょうゆ。8単位(640kcal)かな。

果物アレルギーなのでバナナは避ける。明日あたりから、果物を止めてもらえるだろうか。
ジャムもそれほど好きではないので手を付けず。
パンはふんわりで、なかなかの美味。


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◆晩飯/ごはん(180g)、味噌汁(白菜)、サバ塩焼き、ふき炒め、肉じゃが、和え物(えのき)。8単位(640kcal)くらいなもんだろう。

自宅できっちり食事制限をしていたときは、
ごはんを150g(3単位/240kcal)で計算している。
品種、精米方法、もしくは炊き方の違いだろうか。
個別表記のあった180gより多いような気がする。

  田んぼ記者らしいことを書いておくと、
  同量の「米」を炊いても、上記の理由で「ごはん」の量が変わるのは本当の話。
  精米方法を例にとると、ふつうの白米よりも、同じ品種の無洗米のほうが、
  同じ体積をはかりとったしても、米粒の数は多くなる。
  つまり、炊きあがった「ごはん」の量(体積)が、無洗米の方が増えるのだ。
  だから、お米の計量カップは、白米と無洗米で異なっているのである。

というわけで、家から持参した電子はかりでご飯の量を量ってみた。

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488g - 319g = 169g

あれ、こんなもんか。むしろ少ないという結果。
あてにならん感覚だ。だから、太ったんだろうけど。





【自分史草稿】-----------

私が生まれた1973(昭和48)年とはどんな年だったのだろう。
世相史年表などにかならず記載されるのは「第一次オイルショック」である。
トイレットペーパーを求めて殺到する人たち、ってやつだ。
当然ながら、私自身にはその当時の記憶などない。

母は札幌出身だったので、母親のいる札幌で私を出産した。
出産の知らせを聞いて、
父は札幌行きのトラックをヒッチハイクして札幌へ来たという。
 フェリーの船員なので、たぶん乗船していた運転手にお願いしたんだろう。

どれがもっとも古い記憶かはわからない。
もしかしたら、
あとで聞かされたエピソードを「記憶」と勘違いしているものもあるだろう。

赤川町(もしかしたら赤川通町だったかも知れない)に住んでいた。
一軒家だった。建て売り住宅だったそうだ。
私が2歳くらいのころ購入して転居している。
父は30歳の手前だ。生活力あるなぁ。とても真似できない。
そういう時代でもあったのだろう。
1975(昭和50)年ころの話である。


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たぶん、このあたりだ。
  ここ10年で便利になったもんだ。
  地図を参照するには、図書館でゼンリンの大きくて重たい地図をめくって、
  コピーの申請とか掲載の許諾とか、めんどうな手続きが必要だった。
  その一方で、隣に古い地図を見つけたので今昔を見くらべてみた、
  なんて体験に出会う機会が減るのは、学生にはもったいないことだろう。

いまよりは空き地は多かった気がするが、
当時すでに住宅街だったはずだ。
今は石川町へ通り抜ける道があるが、当時はたぶんどん詰まりだったので、
ほとんど車の交通もなかった。
向かいの家に、少し年下の姉妹がいて、
いつも道路にレジャーシートを敷いて、おままごとしてたそうだ。
幼いころから活発な人間ではなかったのである。
女性好きではあったようだ。
そういえば、ご近所の同年代で遊びに行く家は、
どこも女の子の家ばかりだったな。
そのうちの一人が、後年、同じ高校だったのには驚いた。
(子どもには)おもしろい響きの姓名だったので、覚えていたのだ。
学校で会ったり話したりはしなかったけれども。

自宅前から南へ少し歩くと、
立ち並ぶ住宅の合間に、大きめの空き地があった。
土管はなかったが、ドラえもんに出てくるような場所だ。
近所の子どもたちが集まっていた。年上も年下もいただろう。
みんなと一緒に遊びまわった、という記憶はあまりない。
たしか、青白のスタジャンみたいなものを着ていて、
そいつの生地が「パリパリ」と音を立てるので、
「これはパリでつくったんだ」と奇妙な自慢をしていたのを覚えている。
おそ松くんのイヤミ氏みたいな子どもだ。
そういうところは、35年くらい年齢を重ねても治っていない。
このままなんだろう、きっと。

家には庭があって、白いブランコがあった。
駐車スペースはあったが、車はなくて原チャリ(たぶんカブ)があった。
父が自動車教習所に連れて行ってくれたのを覚えている。
教習車の後部座席に座っていると、父がブレーキを踏むたびに窓に頭をぶつけていた。
教官がそのたびに笑うので、後半はわざとにぶつけていた気がする。
父が車を降りた後で、「そんなに揺れたか」と聞いてきた。
あ、その後部座席に果物が入った網かごがあったのも思い出した。
フルーツナイフも入っていて、それに触ったら痛いだろうな、と怖がっていた。
2012年3月17日(土)

10時30分、入院。
糖尿病では2回目。ここ3年で4回目になる。
いつもの函館中央病院。

食事は糖尿病の治療食。
血圧の薬も飲んでいるので減塩メニュー。23単位(1840kcal)。

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昼食。うまい。
果物アレルギーが伝わっていないのか、リンゴが付いていた。
リンゴと瓜系はいちばん症状が重い(のどが痒くなる)ので残す。

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晩飯。うまい。ビール飲めるくらい。
ただし、ご飯の炊き加減を失敗している。
浸水、水加減、蒸らし、そのいずれかが足りなかったようだ。
胃にもたれた。
また、果物が付いている。




【自分史草稿】-----------

私は1973(昭和48)年の秋に生まれた。長男である。

両親はその前年の12月、松前町館浜にある町民センターで結婚式を挙げた。
父と母の出会いは、松前町へ向かう列車の中だったと聞いている。
この国鉄松前線は、1988(昭和63)年に廃止された。

母は松前の桜を見に行くために乗車したという。
札幌からのひとり旅だった。
そんなこと聞いてみたことはないが、たぶん失恋旅行でもしていたのだろう。
当時の父は、遠洋漁業の乗組員だったはずなので、
出漁期の合間に実家のある松前に帰っていたのかも知れない。
出会いのきっかけは「ナンパ」である。
父は26歳くらい、母は23歳くらいだったはずだ。

父は松前駅で降りたら、メシでも食おうと誘ったらしい。
ちなみに、私は妻を最初のデート的なものに誘うとき、
おいしいソフトクリームを食べに行こう、と声をかけた。ま、親子なんだな。

記憶はあいまいだが、たしか函館から松前まで3時間くらいの車中だと思う。
きっと、父は必死だったと思う。このナンパを成功させるために。
若いってのは良いことだ。

父は松前駅前の寿司屋に連れて行った。
そして、「好きなものを食べてよ」と言い残し、母を店に置き去りにしたという。
戸惑いつつ、しかし、あれこれと寿司を食べるわけにも行かず。
ただただ、カウンターに座り続ける母。
そのころ、父は大急ぎで館浜の実家に向かっていたという。
寿司を食べるお金がなかったからだ。
松前駅から実家のある館浜の部落まで、おそらく10kmくらいある。
どうやって往復したんだろう。
車はないし、バスも不便だろうし、メロスばりに走ったのかも知れない。

どうにかデート資金を確保して、
寿司屋に戻ると、ひと口も食べずに座っている母がいた。
「食べれば良かったのに」と父。
いや、普通は食べないだろう。
というか、席を立って帰っちゃうよな。
そこはやはり、運命というやつなんだろう。
そういうわけで、私が生まれるきっかけとなったわけである。
ちなみに、父は熱々の鍋焼きうどんを注文したらしい。
のちに母は、寿司屋で勢いよくうどんを食べるのが、不思議で仕方なかったと述懐している。

父は結婚に際して、長く家を空けることになる外航船(外国を行き来する船)を降りて、
函館と青森を結ぶ民間フェリー会社に、機関員として就職した。
そして、ふたりは函館市に新居を借りた。
たしか、最初は大森町、続いて末広町とか言っていたはずだ。
トイレの汚いアパートだったらしい。
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プロフィール

高山潤
函館市および道南圏(渡島・檜山)を拠点に活動するフリーランスのライター、編集者、版元、TVディレクター、奥尻島旅人。元C型肝炎患者(抗ウィルス治療でウィルス再燃、インターフェロン・リバビリン併用療法でウィルス消滅で寛解)、2型糖尿病患者(慢性高血糖症・DM・2009年6月より療養中)。酒豪。函館市(亀田地区)出身、第一次オイルショックの年に生まれる。父母はいわゆる団塊世代。取材活動のテーマは、民衆史(色川史学)を軸にした人・街・暮らしのルポルタージュ、地域の文化や歴史の再発見、身近な話題や出来事への驚きと感動。詳しくはWEBサイト「ものかき工房」にて。NCV「函館酒場寄港」案内人、NCV「函館図鑑」調査員(企画・構成・取材・出演・ナレーション)。


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