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 北海道・東北エリアのケーブルテレビ局による自主制作番組コンテスト「第2回しばれるアワード(主催:日本ケーブルテレビ連盟 北海道支部・東北支部)」で、昨年(2020年)夏にNCV函館センターで配信された番組「函館図鑑 戦後75年 函館と戦争の記憶Ⅱ 旧戸井線を訪ねて」が、放送番組部門の準グランプリを受賞しました。

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 小学2年のときに運動会の障害物競走で5等賞をもらって以来となる受賞なので、本音のところでは2番で悔しい気持ちもありますが、こんな投稿をしてしまうほど嬉しいです。

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他の受賞作品や作品の講評はこちらの動画で。
YouTube 
第2回しばれるアワード各賞発表 2021年3月25日発表

番組講評から関係分を抜粋引用。

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すべては取材にご協力いただいた皆さんと、
毎回でもたまたま偶然にでも番組をご視聴いただいている皆さんと、
ぼくのワガママっぷりを受け入れて番組制作をしてもらったスタッフの皆さん、
それぞれすべてのおかげです。
感謝。次は1番と評価されるよう頑張ります。

【取材協力】髭和子 村山信夫 吉村冨士夫 西村滋樹 練谷喜文 蛯子孝 外崎幸夫 後藤良一 旧戸井線沿線住民 ※敬称略
【資料図版提供】函館市中央図書館 国土地理院 University of Texas Libraries Guutara ものかき工房
【参考資料】函館市『函館市史 亀田市編』『銭亀沢編』 恵山町『恵山町史』 戸井町『戸井町史』 函館北高等学校郷土史研究部『戸井線の研究』 富岡由夫『汐首岬砲台施設と遺構』『旧戸井線と汐首岬砲台について』 富岡由夫・山田祐平「汐首岬砲台と戸井線について」 函館YWCA『はこだてピースマップ』 函館市史編さん室『函館むかし百話』 戦争・敗戦・復興の記憶を記録する会『海峡の唄』 森口誠之『鉄道未成線を歩く 国鉄編』 伊藤正大『幻の鉄道 戸井線の今』 北海道旅客鉄道株式会社『道南鉄道100年史 遥』 日本国有鉄道 青函船舶鉄道管理局『航跡 青函連絡船70年のあゆみ』 田中和夫『北海道の鉄道』 アジア歴史資料センター 集まれ!北の学芸員「計画中止となった幻の鉄路 戸井線」 Wikipedia「戸井線」「大間線」「津軽要塞」
【使用音源】SC-Mirai「鉄道唱歌 車内オルゴール 車内チャイム 鉄道 電車」
【撮影・ドローン撮影・編集・ディレクター】坂本 篤(CCSスタジオ)
【AD・撮影】市川 徹(NCV)
【プロデューサー】一森裕正(NCV)
【企画・取材・構成】髙山 潤(ものかき工房)
函館エリアのケーブルテレビNCV にて最新「函館図鑑」配信中。
第16回目のテーマは「函館の河川」。亀田川・鮫川・小田島川・松倉川などを紹介。ふだんはあまり気にしない日常の風景に目を向けてみました。函館には広い河川敷を持つ河川がないので、川に親しむ機会はあまり多くありませんね。

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鮫川に架かる本通公園橋にて。

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函館市街地のおもな河川。

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松倉川中流。ドローンで撮影。

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松倉川の林道を走る。

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残念ながらゴミが目立った。

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【取材協力・資料提供】函館市土木部公園河川管理課 北海道渡島振興局函館建設管理部事業室治水課 函館中央図書館 北海道大学附属図書館 市立函館博物館 亀田川を美しくする会

【参考資料】木村裕俊『はこだての街を作った人たち 願乗寺川物語』 函館・松倉川を考える会『清流 松倉川 ─私たちの川、いまダム問題を考える』『ダムがムダな理由 時のアセスメントと松倉ダム』 函館市『函館市史 通説編第一巻』『函館市史 別巻亀田市編』 北海道大学附属図書館『明治大正期の北海道』 函館市水道局『函館水道百年史』 平凡社地方資料センター『日本歴史地名体系第一巻 北海道の地名』

【地図制作】ものかき工房
【撮影・編集・ディレクター】坂本 篤(CCSスタジオ)
【AD】市川 徹(NCV)
【プロデューサー】一森裕正(NCV)
【企画・構成】髙山 潤(ものかき工房)
【初回配信日 2020年4月17日】

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 5歳違いの弟、私の自慢の弟である高山晋が、東京の自宅で急逝しました。現時点では亡くなった日時や原因は特定されていませんが、おそらく12月21日以降に異変(行政解剖による虚血性心不全という仮所見)があった模様です。
 1978年(昭和53年)生まれの41歳でした。

 生まれ故郷函館や大学での学生時代、そして東京で大好きな雑誌や書籍の編集者・編集長として活動できた19年間。それぞれの場所で多くの皆さまに支えられ、あまりに、あまりにも短い時間でしたが充実した人生だったと思います。高山晋との記憶を共有しているすべての皆さまに深く感謝いたします。

 12月28日に東京にて火葬を終えて、お骨は函館へ帰ってきました。両親の心労も大きく、葬儀は家族のみ執り行う予定です。皆さまのご厚意はすべて辞退させていただき、そのお気持ちだけを確かに拝受いたします。いつかお時間のあるときにでも、あいつの思い出を聞かせてください。

 悲しませるくらいなら、心配や迷惑をかける方がマシだ。両親の背中を見て、そう感じた次第です。

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 子どものころのことを思い出している。ふたりで一緒のタオルケットにくるまって、俺の語る即興の物語を聴いていたっけ。こちらが飽きて話を止めようとすると、もっととせがまれて無理やり話を紡ぐ。どんどん話が訳がわからなくなって、ふたりで笑ってた。

 やりたいことがあって、それには大卒の資格はいらないので、大学を4年目で中退すると相談されたときは驚いた。卒業くらいしとけよ、とありきたりのアドバイスしかできなかった。
 その後すぐに、東京で有力な編集プロダクションに潜り込んだと聞いて、やっぱりあいつは優秀なんだなと思った。でもあとで話をしたら、卒業単位がまったく足りてなかったそうだ。戦略家であるあいつらしいやり口だ。

 俺の弟は全国誌の編集長なんですよ、函館の書店にも平積みされてますから、成人向けですけど。
 まるで俺の手柄のように、みんなにそうやって自慢するのが嬉しかった。すごく嬉しかった。でも、あいつの雑誌や書籍はAmazonか駿河屋で買ってたけれど。

 子どものころはファミコンやPC8801で「信長の野望」や「三國志」をやりたおしてた。その隣にいつもあいつが座ってた。
 近年でも帰省してくるたびにファミコンを引っ張りだしてきて、三國志2のゲーム音楽を聴きながら、横山三国志の南蛮征伐あたりの話を笑いながらするのが楽しくて。

 函館で最後に会った今年八月下旬、あいつがニヤニヤしながら持参したお土産は、東京国立博物館で開催されていた「三国志展」で購入してきた横山三国志のグッズだった。最高だった。たくさんあったものを、ふたりで山分けしたのだが、これで全部俺のものになるのか。嬉しくないよ、馬鹿め。

 ムーくん、ムーくん。不肖の兄にとって優秀な弟の存在は、子どもの時分には憎らしく感じることもあったが、大人になってそれぞれの分野で経験積んだ上で話をしたら、やっぱりあいつは頭がいいんだなと白旗を上げることができた。
 ムーくん、その優秀な思考があれば、病気だって回避できたんだよ。

 あれはいつだったか。兄弟三人でサイコロを振りながら実家の近所を散歩したな。2人が函館に帰省するたびに、俺はまたあれをやりたいなって思ってたんだ。同じ街角に、それぞれ違った思い出があったり、時を隔てても似たような記憶があったり。それは俺の執筆テーマでもあったんだ。

 あいつに教えてもらった豚カツもモツ煮込みも、いつか店をめぐって食べておきたい。東京であいつと飲み歩いたのは1回だけだった。両国・森下界隈で五軒くらいハシゴして、夜道をぶらぶら散歩しながら帰った。あいつは近年お酒を飲むようになって、俺は酒をがぶ飲みできない身体になって。

 あいつが小学生のころに描いた漫画「ファミコン野郎」。ゲームを取り合う兄弟の日常(闘争)が描かれ、見事に機器を奪取した弟は徹夜でゲームをする。最後のコマは顔のアップで、目が血走っていた。「目真っ赤」という添え書きが俺たちの笑いのツボだった。いつもそう言われて親に叱られていたから。

 遺影を選ぶ。
 十年前に写真館へ行って家族みんなで撮った写真。あの時、これが遺影になるのか、なんて冗談を言っていたわけだが。まさか、老いた両親よりも先に、おまえの写真を選ぶことになるなんて。親不孝するなら俺だろうと思っていた。
 あの背中を見ていたら、先には逝けないよ。
8月18日(土)19時から、函館エリアのケーブルテレビ局NCVにて
企画・構成・出演の新作「函館図鑑 パンダが来た夏」が配信されます。
30年前(1988年・昭和63年)に函館市で開催された「青函博」について
中国から来た2頭のパンダを軸に調査しました。

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番組では中学2年生の私も一瞬登場します。
たまたま同年に末の弟が生まれて、はりきった父親が柄にもなく
VHS-Cのビデオカメラを購入しました。
そのおかげで、30年前の不機嫌そうな顔をした私が
映像として21世紀まで残りました。

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当時14歳の私には知ることができなかったパンダ招聘の背景と偉業。
青函博というイベントが後世の函館に残したモノやコト。
懐かしい映像ととともにお愉しみください。

【取材協力】
 池田動物園(岡山県岡山市)
 函館日中友好協会
 函館華僑総会
 函館商工会議所
 函館博物館
 函館中央図書館
 函館市企業局
 ヤマサ産業

【参考資料・文献】
 青函トンネル開通記念博覧会実行委員会編『青函博・函館EXPO88公式記録』
 函館中央図書館所蔵「北海道新聞」青函博関連記事切り抜き集
 函館蔦屋書店『peeps hakodate』vol.31(2016年6月号)「あの夏、パンダがやって来た。」
 小川正樹「19世紀から20世紀にかけての函館外国人居留地と華商の活動」(函館私学研究紀要 第43号)
 退院したなと思ったら再入院だ。もちろん予定通りなのだが、その予定も前回の入院中に決まったことなので、ここのところは腎臓の野郎に翻弄されながら日々を過ごしている(ちゃんと機能していないくせに)。
 29日は桜満開の五稜郭を生ビール片手にゆっくりと散歩し、その足で日が沈む前に店を開けてもらった行きつけのバーへ(梁川町 BarCozy)。生ビール、ジャパニーズウイスキーでハイボール、そしてシェリー酒のティオペペを5杯くらい呑む。ほどよく酩酊したまま自宅まで歩いて帰った。透析が始まれば、こんな酔いどれ行為は許されなくなるのだろう(か)。充実した午後だった。
 入院前日30日の朝は軽めの二日酔い。仕事のやる気は起きず、溜まっていたテレビ録画を視聴しながら入院の荷造りをする。前回の荷物を完全にほどいてはいなかったので、入院中の必需品はあちこち探し回らなくてもすぐに揃った。朝飯はパンと卵焼き、昼飯はもやし炒めと低たんぱくラーメン、夜はおじや。退院後の暮らしを話し合いながら早めに就寝。
 明けて5月1日。6時起床。ピーさんと遊びながら出かける仕度。9時40分に家を出て、50分には病院に着いた。すぐに入院手続きをして、ほどなく病室へ。前回よりも長めの入院になるので、今回はいつものように窓側ベッドを希望しておいた。看護師長さんがやって来て、窓側は手配がつかなかったので個室へ、と案内される。おっと。そこは一泊おいくら万円ですか、と即座に確認してしまった。一泊1,080円(自己負担する差額ベッド料金)ということで、バカ高いわけではない。とは言え、部屋も立派ではない。ただただ個室なだけだ。とりあえず、看護師さんに確認した上で、床頭台や電動ベッドの位置を自分好みのレイアウトしなおす。やはり机は窓際が良い。ベッドも部屋のど真ん中にあったが(介助がしやすいためだろう)、俺は自分で寝起きができるのでベッドを壁際に寄せた。パイプ椅子に愛用の座布団を敷いて床頭台の机に向かうと、存外にしっくりくる。4人部屋の窓側ベッドが空き次第移動するという約束だったが、この快適さは捨てがたくそのまま居座ることにした。連休明けには予約が入っているので、それまでということだが。
 前回の手術は全身麻酔ということで、とにかく準備することが多かった。万全とはああいうことを言うのだろう。今回は局所麻酔での手術なので、事前準備も四分の一くらいで済んだ。全身麻酔の素晴らしさを経験したので、局所麻酔には「手術の途中で麻酔の効き目が弱まって痛みがひどくなる恐怖」という悪夢を想像して、すこし余計な心配をしてみたり。夕方、担当医の一人が回診に来る。明日の執刀医のようだ。CAPDおよびAPDの運用(とくに併用)について質問をいくつか。どちらの透析方法が有意に効果的か、という質問に対しては、逆にどちらがライフスタイルに合っているかと問い返された(それぞれで透析のために拘束される時間や回数が異なる。いずれも自宅や外出先でできるのは同じ)。つまりは、効果に大きな差異はないのだろう。このあたりは追々さらに確認してみるつもりだ。外での仕事が立て込んでいるときはAPDで、家で落ち着いて仕事をしているときはCAPDで、そういった併用ができないかと考えている。さて、前回と今回の手術で、腹膜透析のための準備(お腹の中にカテーテルを入れて液体の常設出入口をつくる)は完了だ。成功を願いつつ就寝した。
 翌2日、6時起床。普通に朝めしを食べて、歯を磨き顔を洗い手術着に着替えて(今回は丁字帯は必要なし)準備完了。点滴針は右手甲で一度失敗して看護師交代。左手甲で成功。いつもよりちくちくと痛い。入れているのは抗生物質との由。9時20分、手術室へ歩いて移動。前回ほどの高揚感がない。昨夕の執刀医が迎えに来る。読者の皆さんの総意として、手術のついでに脂肪も吸引してもらえと言われたと伝えると、それは身体に負担がかかるからおすすめできないと言われたので、泣く泣くあきらめた。9番の手術台に案内されて、階段を使ってよじ登る。前回の手術では直前の準備が、テレビで見たことがある救急救命特番のような雰囲気で進んでいたが、今回はすこし余裕がある感じだ。しかし、これから意識のあるまま腹を切られるのかと思うと、だんだんと緊張感が滲んできて呼吸が荒くなってしまった。深呼吸を繰り返して平常心を取り戻すように努力する。「腹膜透析用カテーテルの取り出し術を始めます。予定時間は30分です。」のようなことを執刀医が言って手術が始まった。麻酔をします、と言われて腹にぷつりと針をさされた瞬間が痛かった(7鼻毛)。ゆっくり深く効かせていきますと言われて、なるほどだんだんと痛みは引いて、押されたり引っ張られたりする感覚だけが残る。焦げ臭い匂いがした。おそらくいま切り開いたのであろう。ぐいぐいと腹を押される。カテーテルを引っ張り出すようだ。イタタタた(断続6鼻毛)。局所麻酔が追加されるがちくりちくりとした痛みは続く(断続6鼻毛)。深い部分なのですこし痛みます、と言われて、これは我慢する時間帯だと理解する。ここが今回の手術の山場で、そこからは痛みはほとんどなかった。傷口を縫っておしまい。自分で手術台から降りて車イスに乗る。部屋に戻ると10時15分くらいだった。※「鼻毛」は痛みの単位です。
 すぐに点滴も外れて、いきなりの自由を得た。たまに傷口がずきりずきりと痛むが、前回の苦痛(おもに尿瓶が上手に使えない精神的苦痛)に比べると気楽。痛み止めを飲む。さっそく、お腹から出ているカテーテルが機能しているかを確認するために透析液を注入する。どうやらこの病院では腹膜透析の実績が少ないらしく、病室にわらわらと見学の看護師さんが訪れて、「久しぶり」「初めてだから見ておきなさい」「緊張する」などと発言していた。腹膜透析の弱点は、身体の内部に通じる出入口が外に晒されている点だ。そこを通じて悪いものが体内に入り込むと、腹膜炎などを発症して腹膜透析を断念するしかなくなる。そのために、ヒューマンエラーによる汚染を回避するために、カテーテルをつないだり切り離したりする手順が機械化(自動化)されている。昨日のうちにマニュアルを読み込んでおいたので、看護師さんの作業を見ながら操作手順を確認できた。非常に簡単だ。とにかく、清潔さに配慮できれば問題ないだろう。1.5リットルの透析液を入れる。CAPDの場合は、液の注入も排出も圧力をかけるわけではなく、高低差を利用して出し入れをする。結構な勢いで流入してお腹が膨らんだ。10分かからない。500mlの缶ビールなら三本、もしくは生ビール中ジョッキで四杯くらいを、いっきに飲んだのと変わらない状況のわけだ。この状態から腹いっぱい食べたり飲んだりするのは苦しそうである。CAPDだと、この状態をキープしていくことになるので(4〜6時間ごとの液の入れ替えがある)、腹回りだけでも痩せて凹ませないと格好は悪いかもしれない。ただし、APDに問題なく移行できれば、透析液を留置させておくのは就寝時だけになるので(眠っている間に機械が自動的に透析液を何度も入れ替える)、この懸念は解消されるのだが。廃液には30分ほどかかった。1リットルくらいは一気に流れ出てくるのだが、そこから寝返りをうったり、立ち上がったり、身体をひねったりして、絞り出す感じ。肛門の内側あたりがきりりと痛むが、これはカテーテルの先端がそのあたりにあるためらしい。痛みは排出がちゃんとおこなわれている証拠でもあるという。はじめて体内から出てきた透析液は濁りもなくて透き通っていた。その後すぐに二度目の液注入。4時間後に廃液すると、今度は1.5リットルが1.74リットルになっていた。浸透圧によって身体の水分を排除(除水)したことで量が増えたわけである。さらに、もう一度の注入。4時間後の19時に排出。1.7リットル。透析によって約500g痩せたということになるのだろうか。この日はこれでおしまいで、夜は液を注入せずに就寝ということに。
 18時ころ腹膜透析の機器を提供しているメーカー(バクスター)の人が来て、看護師さんたちにAPD(就寝時に全自動で透析液を出し入れする機械)の操作手順を説明をしていた。大きさはひと昔前のA4のファクシミリ付きプリンターくらい。どっしりと重い。メーカーの人に宿泊を伴う外出先での透析について、どのような対応が取れるのか確認してみた。CAPDの場合は小型の接続機と透析液だけを持参すれば、どこでも透析を続けることは可能だ。接続機は手荷物でも持ち運べる。APDの場合は自動車での旅行なら可能だろう。いずれの場合でもネックになるのは透析液の持ち運びである。一日分で8〜10リットルだから、数日にわたる旅行の場合はこれを手荷物で持ち運ぶのはムリだ。預け荷物にしても、エキストラチャージが高額になるだろう。そこで、メーカーのサービスとして、滞在先に透析液を届けることができるのだという。国内ではだいたいどこでも問題ないようだ。海外へも手配が可能だが、日本から透析液を送るわけではないらしい。各国のバクスターで透析液を準備するので、いま使っている日本仕様の透析液および機械とは異なる場合が多いとのこと。となると、カテーテル接続部分の付替えが必要で、かつ透析液の手配にも最短で8週間かかるということだった。もちろん、前提として主治医の許可も必要になる。かなり面倒くさいことになったな、と思いつつも、海外渡航がまったくできなくなるわけではないことに安堵する。取材と旅行の可能性がある中国・台湾・ヨーロッパ諸国での環境について確認してもらうことにした。お忙しそうですね、と言われたが、この先も忙しく働けるかどうかはわからない。
 ということで、2018年5月2日、慢性腎不全による人工透析が始まったことで、私は身体障害者になったのでありました(まだ認定前だけど)。
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プロフィール

高山潤
函館市および道南圏(渡島・檜山)を拠点に活動するフリーランスのライター、編集者、版元、TVディレクター、奥尻島旅人。元C型肝炎患者(抗ウィルス治療でウィルス再燃、インターフェロン・リバビリン併用療法でウィルス消滅で寛解)、2型糖尿病患者(慢性高血糖症・DM・2009年6月より療養中)。酒豪。函館市(亀田地区)出身、第一次オイルショックの年に生まれる。父母はいわゆる団塊世代。取材活動のテーマは、民衆史(色川史学)を軸にした人・街・暮らしのルポルタージュ、地域の文化や歴史の再発見、身近な話題や出来事への驚きと感動。詳しくはWEBサイト「ものかき工房」にて。NCV「函館酒場寄港」案内人、NCV「函館図鑑」調査員(企画・構成・取材・出演・ナレーション)。


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