糖尿病【入院】日記の最近のブログ記事

2012年3月24日
函館中央病院で迎えた八日目。

朝起きたら、けっこうな降雪と積雪。
ブルドーザーが病院の駐車場を除雪している。

起きぬけに採血一発。

体重に変化なし。

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朝食/知内のニラをたっぷり食べたい。ステマじゃないよ。

主治医の回診。
血液検査の結果。ほとんどの数値は改善へ。
ただし、尿酸値だけ顕著な上昇。
食生活に影響を受けやすい数値なので、
主治医いわく「私の知識では、いまのところ原因はわかりません」と。
3年前の入院治療でも、同じような現象が見られたが。
いちおう金と時間をかけて入院しているので、食事にずるはしていない。
食事の他に影響をおよぼすのは、過度なストレスと激しい運動である。
自分の身体がよくわからない。

昼前に妻が来院。健康診断を受けたついで。

来月から、また別居になる。
結婚後初の同棲生活は1年弱で終わった。
住居の手配やら引っ越しのだんどりやら。

昼飯。撮影し忘れた。
横に妻がいて、浮き足立っていたのかも知れない。

ごはん、焼き魚、ほうれん草おひたし、れんこん、味噌汁、だったはず。

午後から一時帰宅。
外出届に記載する外出理由を「便秘解消」と書いておいたら、
看護師さんが笑っていた。

郵便物や宅配便の整理、仕事のだんどり、トイレ。

2時間ほどで病院に戻る。

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晩飯/主菜はモヤシと肉。しょっぱかった。でも、家から持ち込んだ「オールフリー」にぴったりだった。

明日の体重減を期待しつつ就寝。






【自分史草稿(八)】-----------

家から100mほどのところに小さな商店があった。
幼い私でも狭いと感じるような間口の店だ。
何度かお使いに行った記憶がある。
ある日、その店へ行く途中で子犬を見つけた。
そばに大人がいたので、きっと飼い犬だったのだと思う。
首輪やリードなどはしていない。
私は生来の臆病であったが、白い子犬をさわってみたくて近づいていった。
大人もいるし大丈夫だろうと。
ところがである。子犬は私に向かって猛然と吠えだし、
驚いて後ずさる私に飛びかかってきた。
さらに、走って逃げ出す私を、それはまるで獲物を見つけた猟犬、
いやライオンやチーターのように追いかけてきたのだ。
その様子を見ながら、大人は「逃げるからだぞー」と笑っていた。
私はその小さな店に逃げ込み、しばらく帰宅することができなかった。
ずっと「大人なんだから助けてくれたらいいのに」と恨み言をつぶやいてい。
私はもっと臆病で引っ込みがちな性格になっていった。

家から400mほど、赤川通りとの交差点には、もうすこし大きめの商店があった。
たしか名前は「赤川ストア」だったか。
いまは、その向かい側にセブンイレブンがある。
赤川の自宅前の通りは「むつみ通り」という名前がついているらしい。

道幅はさほど変わっていない気がするが、赤川通りはまだ舗装されていなかった。
通りを500mほど歩くと中規模スーパーの「つしま」があった。
家からは1kmくらいになるのか。
日常食料品の買い出しはここだったと思う。
いわゆる「お出かけ」や「お買い物」は大門へ行くわけだ。

「つしま」の2階には、いっときレストランが開業していた。
幼い私はいつもその店が気になっていた。
たしか冬の日だ。そのレストランで食事をしようと出かけたことがある。
喜び勇んで扉に手をかけると、本日休業だった。
そのときの残念な気持ちを、いまでもきっちり思い出すことができる。
子どものころから根に持つタイプだったようだ。

病気になると小松病院に連れていかれた。
この病院はいまも現存している。現在、「学園通り」と呼ばれる通りにあり、
「コープさっぽろ」の向かい側だ。
ここにはかつて運転免許試験場があった。
2012年3月23日
七日目の函館中央病院。

いつものごとし。体重に変化なし。
つまらん。

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朝食/愛想のない目玉焼き。

午前中、新はこだて農協の田山さんが病室に顔を出す。
今日は年一回の人間ドックだったそうで。
春からの農業体験番組の話、
仙台で開催した「みなみ北海道グルメパーク」の話など。

新年度に動く事業なども、いろいろ耳にする。
北斗市では新幹線開業に向けて、
北斗市らしい(それはつまり大野町・上磯町らしい)事業を、
官民でいろいろ考え動かしていくようだ。
ぼくは新幹線について、いまのところなんの定見も持っていないが、
このように、ひとが集まって考えて行動しだすのは、
とても良いことだと思っている。
きっと、なにか手伝えることもあるだろう。

大雪と農産物の話も。
まぁ、やはりこれだけ降れば、影響はあるようだ。
野菜で言えば、露地もハウスも需給タイミングのずれが価格に影響しそうだ。
お米に関しては、おそらくすこし遅れるくらいで、品質にはあまり影響しない。

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昼飯/麺類はつるつる食べてしまうので、「ゆっくり食べて満腹になったような気がするじゃないか、いやはや驚き」作戦が使いにくい。

リハビリ室で軽いストレッチのあとで、エアロバイクを40分。
今日はすこし負荷を増やしての運動。
心拍を把握しながらの運動は、あまり疲れないけど筋肉に効いている感じがする。
本当におもしろい。

病室に戻って、さて仕事するか、とサムネを切り出したら、
お見舞いにもうひとかた。
以前、「ハコダテ150」というサイトでご一緒させていただいた青年だ。
お互いに古い物自慢の話をする。
楽しく仕事をしてください。それがいちばんです。

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晩飯/今日はあまりおいしくない。滋養には良いのだろうけど。


ツイッターとフェイスブックを、すこしだけ復帰させてみた。
ただ、あまり積極的にそれらのツールを稼働させるのには、まだちょっと躊躇がある。
知らない人から、いろいろ言われるのは、本当に胃が痛くなる。

知人なら、
「あー、こいつはこんな人間だからな、これくらいの戯言はいつものこと」
となるところを、ちくちくと(メディアの人間としていかがなものか的に)言われると、
いつから俺はそんな立派で影響力の大きな人間に認定されたんだよと思う。
それやこれやと、IFNの影響による精神不調で、
しばらくツイッターもフェイスブックもブログも触りたくなくなっていたのだ。







【自分史草稿(七)】-----------

家の前は舗装道ではなくて、先のとがった石が敷き詰められていた。
採石されて砕かれた石だったのだろうか。

ある日、すっころんだときに、その砂利道に手をついたら、
手のひらの皮がべろりとむけたしまったことがある。
サビオ(絆創膏のこと)を貼られて、たぶん1週間くらいで治ったのだが、
皮膚が再生した手のひらを見てみると、手相が激変していた。
カーブを描いていた手のひらのしわが、3本に分断されて並列していた。

手相占いってのがあるが、すっころんだくらいで変化する手相を見て、
未来のなにがわかるというのだろうか。
この事象からわかるのは、転んで顔に傷をつけるほど
鈍い子どもではなかったということくらいである。
将来、酔っぱらって転んで、まぶたの上を切ったのはまた別の件だろう。
3月22日(木)

函館中央病院にて六日目。
左頭が日焼けしそうだ。気温もそれなりとラジオの天気予報。

廊下の向こうから聞こえてくる声や、
カーテンのすきまから見える光景から、
医療現場の事情、そして、社会の事情が見えてくる。

高齢者向けの情報媒体をつくる仕事をしてから、
  (まぁ、団塊世代の親も、じわじわじわりと高齢者に脚を踏み入れているし。)
老後とか介護とか福祉に関連する書籍をかためて読んでいる。
そのうち、病室に持ち込んだ2冊。

 ◆西垣千春著『老後の生活破綻 身近に潜むリスクと解決策』(中公新書)
   高齢化社会における幸福度は「健康」「家族」「収入」で決まる。
   医療が進歩したり、福祉が拡充されても、
   やはり、今も昔も変わっていない根本は変わっていない、ということ。 

 ◆大井玄著『「痴呆老人」は何を見ているか』(新潮新書)
   幸福度を高める準備を怠っていると、どうなるか。
   その結果のひとつが、「痴呆(認知症)」ではないだろうか。
   当事者、関係者、そして社会の成員として、なにができるのか。
   そんなことを考えつつ読んだ。

アマゾンで、医療社会学に関連する書籍を数冊注文。

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朝飯/病院でしか見たことがない梅びしお。

12時、個人栄養指導。

食事療法に関する知識は十分ということで、
失敗の原因とこれからの対応について話し合う。
とは言え、ぼくと管理栄養士で意見はまったく一致していた。

あとは、なぜか去年の4月から外来診察での糖尿病指導と食事指導が外れていたので、
(原因はよくわからないし、肝炎治療が思いのほか辛くて気がまわらす放置してた)
退院後の再開をお願いすることに。

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昼飯/八宝菜のタケノコだけ残す。このカボチャうまい。

いそいで昼食。

リハビリ室で軽い運動。
エアロバイクに心拍計が付いていて、その目印に運動するという行為が楽しい。
これまでバイクには、
スピードとケイデンスだけを計測できる機器を取り付けていた。
トレーニングってほどではないので、ハートレートモニターはいらないと判断して。
でも、効率よく、かつ長く運動するには、
このモニターが重要かつ良い指針になると実感。
スピードメーターだけだと、短時間でもどれくらい速度を出せるか、
そっちに気をとられちゃうんだよね。
心拍計(ハートレートモニター)の購入を決意する。

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晩飯/肉だ。すごいもんだ。痩せないよ。これじゃ。

半年ぶりに、運動意欲がわいてきたので、
 (肝炎治療の影響で体力・気力ともに萎えてしまっていた)
入院中に細々準備をしておくことにする。
とりあえず、携帯電話(au)のダイエット記録系のサービスを登録してみた。







【自分史草稿(六)】-----------

祖母(母方)とはいつごろから同居していたんだろう。
両親が赤川に家を購入は、
もしかすると祖母との同居が前提だったのかも知れない。
大正生まれの祖母は、和裁(着物を仕立てる仕事)をしていた。
内職にしては、それなりに稼いでいた。
祖母の部屋に遊びにいくと、きれいな反物がいくつも広げられていたり、
竹尺やら、チャコやら、針や糸、よくわからない道具がたくさんあって楽しかった。
ただ、たまにたいへん高価な着物の依頼があるらしく、
たとえばミカンなどを握りながら部屋に入っていくと、
針を刺すよ、的な脅されかたをして、追い出された(気がする)。

母は札幌とその近郊で生まれ育ち、
あまり恵まれていない境遇を、歯を食いしばって乗り越えてきた人だ。
母の生い立ちについては、はっきりすべてを聞いたことはないが、
とくに幼少時のエピソードは書き綴るのをためらう。
とは言え、おそらく私の人格形成には、
どちらかと言えば母親の影響を受けているようなので、
きっちり対峙しておく必要があるとも感じている。

 十年ほど前に、母親を石狩市八の沢に連れて行ったことがある。
 母が小学校時代を過ごした場所で、かつて石油採掘がおこなわれていた。
 母はよく八の沢での悲喜こもごもを語ってくれた。
 そして、かならず最後に泣き出した。
 石狩市に問い合わせをして、場所を確認してから訪れた。
 わずかに、小学校の校門だけが残っており、
 それ以外の痕跡はまったく失われていた。
 とても、人が住んでいたとは思えない景色になったいた。
 母は泣きながら、幼いころの思い出をぽつぽつと語っていた。

母は札幌北高校を卒業した。
同級生の多くは北大に進学していったという。
おそらく、母にも進学へのあこがれはあっただろう。
家庭の事情はそれを許さなかったらしい。すぐに稼ぐ必要があった。
たしか、北海道労働金庫に就職し、さらに松下電送機器へ転職したらしい。
そういえば、母の本棚に松下幸之助の本があった気がする。
その後、国鉄松前線で父と出会うわけである。
3月21日(水)

五日目の函館中央病院。
窓からの眺め、雪景色の吹雪模様で驚く。
血圧127/78、体温35.5度。

午前中は腹部エコー検査のために絶食。
昨夜21時から水分もとっていない。

10時半、主治医の回診。
検査データの提供についてお願いすると、
こころよく応じてくれる。

11時ころ検査室に呼ばれて、
お腹にローションをぬられて、撮影端子をぐりぐり押しつけられる。

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待望の昼食/ハヤシライス、ポテトとタマゴのサラダ。なんとなく、著名なネズミのシルエットに。


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皿底にはパリパリにアルファ化した米が。食べられないので残念だが残す。

なんだろう。炊いたご飯が足りなくなったんだろうか。
こういう当たりを引くのが、俺らしくて満足。

14時、糖尿病患者に向けた集団栄養指導。
摂取カロリーの把握と食事内容(「食物交換」方式を使う)のレクチャー。
基本的な事項なので、とくに新しい情報は得られなかった。

まじめに取り組むと、料理を見ただけで(計量をしなくても)
カロリー量がわかってくるもんだ。
ただし、慣れとゆるみで、計測目盛りが甘くなってくる。
「慣れてきたら、毎回の計測は必要ありません。
 ただし、確認のために月1回くらい計り直してみましょう。」
この指導には、たいへん納得。

あちらの都合で、運動療法の時間がなくなりキャンセルに。
すこし身体を動かしたかったので、散歩に出かけることにした。
過去の入院では、そのつど外出届を提出して、主治医の許可を取り、
それでようやく外出するという流れだった。
今回は主治医から「ご自由に」という言葉があるのと、
病棟の看護師長の柔軟な対応によって、
声かけだけで出かけられることになった。
まぁ、重症ではない、ということもあるだろう。

街を歩くと情報(看板とか音とか香りとか)があふれていて、
思考が刺激されるので良い。
仕事のこととか、いろいろたくさん着想がわいてきて楽しかった。
歩道に雪が残り、けっこう歩きにくい。
湯の川まで歩いて、かるく汗をかいて帰ってくる。

向かいベッドにいる患者は、どうやら父と同郷らしい。
声をかけて、いろいろ話をしてみると、
(田舎なので当然のことながら)わかるわかる、ということになった。

となりの爺さんのところに娘が来る。
お互いに、いろいろぶつぶつ文句を言っているのが聞こえてくる。
 「いやぁーやぁ、タバコ1本くれや」
 「なに言ってんの。意味わかんないわよ」
笑いをこらえるのが大変だった。

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◆晩ご飯/ごはん(195g)、焼き魚(サバ)、すまし汁、鶏そぼろ煮(ほらまたササギだ!)、和え物。薄味羽の俺だが、魚にはしょうゆがあった方が良かったかな。たぶん添付もれじゃないだろうか。







【自分史草稿(五)】-----------

茶の間には「バルカン スパーヒート」 とかいうストーブがあった。
たしか外国製。
でかくてごつくて、さらに灯油をかなり喰うものだったそうだ。
ぺらぺらの隙間だらけの家だったので、
パワフルな暖房が必要だったのだろう。

台所は家の北側に位置して(玄関や茶の間は南面していた)、
たいへん寒かった記憶がある。
食事は台所にあるテーブルで食べた。
そのころは、たいへん食の細い子どもで、
いつも親に隠れて、ごはんやおかずを捨てていた。

急な階段をのぼると、2階には向かい合う部屋がふたつあった。
ひとつは寝室で、大きなベッドと小さなベッドがあった。
この大きなベッドは、引っ越した先の家に現存している。
もうひとつの部屋は、祖母(母の親)の部屋だった。
3月20日(火)

四日目。函館中央病院。
1kg痩せた。便秘が解消されたので、その分とも言える。

 「もう、死んじまいたいの」
 「まー、そんなこと言ってぇー、かんたんに死ねないんだよ」

そんな会話が廊下の向こうから聞こえてくる春分の日。
極楽浄土は彼岸の彼方か。

祝日で検査などもなく、病棟はゆったりしている。

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朝食/ごはん(195g)、味噌汁(大根葉)、温泉たまご、大根とにんじんの煮物、牛乳、減塩しょうゆ。

血圧136/72 体温 35.7度
家にいるときと同じ。

朝からでかい声で電話をしているオッサンがいる。
病棟マナーを逸脱しちゃうのは、男性のほうが多いような気がする。
そして、病状の進行に(精神的に)弱いのも男性だ。

11時過ぎに妻が来院。
4回入院して、妻のお見舞いがあるのは初めてだ。
1階のドトールで、ミラノサンドCをがつがつ食べていた。
こちらは真っ黒のコーヒー。

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昼食/豆ごはん、焼き魚、大根おろし、きゅうり酢の物、三つ葉のおひたし、しょうゆ。

なぜか、ぼくの昼食が手配されていなかったようで、
10分ほど遅れて運ばれてくる。
あわてたのか、減塩しょうゆではなかった。

14時過ぎ、NCVのディレクターが来院。
4月以降の番組企画などを打ち合わせ。
農業体験もののコーナーを立ち上げられるかも知れない。
楽しくなってきた。

昨年の2月から休止している「函館酒場寄港」の話題も。
視聴者アンケートでは、再会のお願いがいまだに寄せられるそうで。
ありがたいことである。ふだん求められることが少ないので嬉しい。
なんだかんだとしゃべりすぎて疲れる。

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晩飯/ごはん(180g)、味噌汁(ふ)、スパゲティー、鶏肉。

今日はコーヒーを飲み過ぎて胃もたれ。
食欲がないが、明日は検査のために午前中は絶食なので、そろそろと箸を付ける。
なんだかんだ言って、きっちり食べた。






入院記録のついでに、むかし話を綴っていますが、
これは僕自身のリハビリとして書いているだけなので、
読んでも役に立たないし、おもしろくもないです。

【自分史草稿(四)】-----------

しばらく、おしゃぶりを咥えていたそうだ。
いまでも、おしゃぶりはゴム色をしているんだろうか。
おしゃぶりを捨ててきなさい、と何度も言われた。
当時はトイレットではなく、ぼっとん便所である。
私は便槽に落ちたおしゃぶりをじっと見つめていたという。

引き戸の玄関を入ると、広めの靴脱ぎスペースがあった。
左手が茶の間へのとびら、右に振り返ると便所のとびら。
正面右手に階段があり、その下に収納スペースがあった。

ここになぜかパチンコ台が置いてあった。
銀色の取っ手を指ではじくタイプのものだ。どこかで拾ってきたんだろう。
チューリップに銀玉が入ると、ちゃんと玉が出て電飾も光った。
私の玩具だったのか、父の玩具だったのか、よくわからない。
おかげさまで、それ以来、私はいままでパチンコをしたことがない。

茶の間は板張りの壁で、床はぎしぎしと音を立てていた。
建て売りの安普請だったのか。
後年(と言っても、この赤川の家には4年ほどしか住んでいない)、
業者が来て床下を点検していたのを覚えている。ひどい状態だったという。
庭に面した大きな窓があり、ガラスにはひび割れがあった。
私が激突したあとだ。

壁には躍動する馬が描かれたカーペットが掲げてあった。
イスタンブールででも買ってきたんだろうか。
このカーペットは、いまも引っ越した先の実家の壁にある。
三畳くらいの大きさなのだが、
実はよくみると一畳分くらいカットされて、つなげてあるのがわかる。
ひまで仕方なかった子どものころ、この絵を何時間も見つめていたっけ。

向かいの姉妹とおままごとをするか、
近所の女の子の家に遊びにいく以外は、
家でトミカを走らせたり、赤い車の絵ばかり描いている子どもだった。
ひとりで、ぶつぶつ、つぶやきながら。
ちなみに、幼稚園までは、すらりと痩せていた。
いかにも、もやしな感じ。
チラシの裏や画用紙に、くねくねと線を引いて、
それに合わせて何台もの車の絵を描いていく。
母はうまいうまいと言って、それを何枚も壁に貼ってくれた。

ガラス張りのサイドボードがあって、
そこには洋酒のミニチュアボトルが並んでいた。
大きなワニの剥製もあった。
父が中南米で漁をしていたとき、お土産で買ってきたもののはずだ。
目玉がビー玉だった。
15センチほどのタツノオトシゴの剥製もあった。
大沼公園で拾ってきたドングリを引き出しにしまっておいたら、
虫がわいてひどいことになっていたのも覚えている。

幼稚園に入る前だと思う。家に刑事が来たことがあった。
車内から財布を盗まれたのだ。
 あとで、近くの中学生の犯行だとわかった。
警察の人が来るよ、と聞いて、窓ガラス越しに来訪を待っていたら、
私服の大人が普通の車でやって来た。
私は残念そうな顔をしていたのだろうか。
その刑事が「パトカーじゃなくてゴメンな」と声をかけてきた。
ここでパトカーを間近で見ていたら、警察官になっていたかも知れない。
2012年3月19日(月)

函館中央病院にて。
糖尿病治療のための食事療法3日目。

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◆朝食/ごはん、冷や奴、味噌汁(わかめ)、つみれとささぎの煮物、牛乳(180ml/120kcal)、減塩しょうゆ。

病院食にはかならず「ささぎ」が入っているな。
保存しやすい食材なのかな。
どうやら、フルーツは出なくなったようだ。

朝9時、秋保先生がわざわざお見舞いにいらっしゃる。
「洞爺丸」本の原稿も大幅に遅れているし申し訳なし。

眼科の検査。
糖尿病による網膜症(単純網膜症)の症状が見つかった。
前回(2年前)の診察ではどうだったかな。
このブログの記事をさかのぼって確認すると、「合併症はナシ」との診断だった。
この半年以外は、きちんと血糖コントロールしていたのだが、
それでも症状はあらわれるようだ。
とは言え、ほとんど気にならない程度だという。いまのところ。
二か月後の診察予約をする。
まるで関係ないが、担当医は好みのタイプだった。

眼科の向かいが泌尿器科なんだが、
そこの外来看護師さんが、たいへん素晴らしい対応をしている。
「足もと悪いところ、ありがとうございます」などと患者に声をかける。
それでも、べったり馴れ合いという感じではない。
患者も「よっ」とか挨拶を交わしている。
きちんと通って、病気を治したい、という気持ちにさせてくれる。

この人に店の接客を任せておけば、ぜったい成功するだろうな。

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◆昼飯:ごはん(195g)、鶏の照り焼き、マカロニとチーズのサラダ、キノコと野菜のホイル焼き、減塩しょうゆ。熱々のホイル焼きに感動。照り焼きもうまし。マカロニは「サラダ」を名乗るくせに炭水化物なんで、食べると損した気分になるんだよな。

隣の爺さんのところに担当医師が回診。
カーテン越しに会話が聞こえてくる。どうやら、ちょいと面倒な病態らしい。
医師が専門用語ばんばんで質問(問診)して、
爺さんは、よくわからないながらも、質問へたどたどしく答える。
しかし、かみ合わない回答に対して、
「それはわかっていますから。そうではなくて・・・」と返す医師。

技術が優秀でもなー。
臨床じゃなくて、研究職にでも行けばよいのに。

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今日は朝から吹雪。

主治医の回診。40秒。
「ヘモグロビンA1cは6.0%でしたよ」と、入院時の血液検査の結果を口頭にて。
他の数値も確認したいから、できれば外来診察のときと同じように、
検査結果を出力印字した用紙をご提供いただきたいところだが。

理学療法士(だったかな)から、リハビリ室で運動療法の説明。
いろいろ質問をしてみる。あんまり質問され慣れていないのか、
さらに後の時間が詰まっているらしく、あちらの口調にだんだんとイラが入ってくる。
聞くとか、見るという行為には、どうしても仕事柄が入ってしまう。
しつこすぎたか、と反省。でも、聞いておきたいことがたくさんあったもんで。
運動の「理論」をいくつか知れて、役立つ時間ではあった。

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◆晩ご飯/ごはん(195g)、味噌汁(キャベツ)、魚の磯焼き(タラかな)、すき焼き風の煮物、減塩しょうゆ。

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フルーツが止まったので、ごはんが増えたようだ。
おかずの分量はどうなんだろうね。

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497g(ごはんと茶碗の重さ) - 319g(茶碗の重さ) = 178g
あんまりきっちり計ってないんだな。ま、誤差の範囲か。

短い原稿を一本、企画書を1本書いて就寝。





【自分史草稿(三)】-----------

隣の家は私塾を開いていた。
脚が悪いおじさんがいて、家の二階で授業をしていた。
机の上にはすごく小さなテレビがあったのを覚えている。
高校生の娘さんがいて、よく遊びに行った。
白いギターを弾いてくれた。いや、白くなかったかも知れない。
ある雨の日、娘さんを学校まで送る車に同乗した。
たくさんのお兄さんお姉さんが、どんどん建物に入っていく。
その人数にすこし怖くなって、出していた顔を引っ込めた記憶がある。
たぶん、あれは東高校だったと思う。

言葉の覚えは、早かったのか遅かったのか。
長男(5歳まで実質的なひとりっ子)だし、たぶん遅かったんじゃないだろうか。
喃語(なんご)を自慢げに話していたらしい。
「ぐちゅぐにゅ、みゅちゅちゃしゅ、にゃにゅぎじびゃー」
「お、潤がまた英語を話しているぞ」
そんな会話を覚えている。
覚えているが、そんなはずはないので、きっとこれは後からつくられた記憶だろう。

私が最初につぶやいた言葉は「赤ブブ」だったそうだ。
赤い車、という意味である。
三つ子(の前だと思うけど)のたましい百まで、ってやつで、
いま乗っている車は真っ赤である。

免許を取った父は車を購入した。
マツダ(東洋工業)のグランドファミリアだったと思う。焦げ茶色だ。
記憶ではヘッドライトは角形だったから、
丸型にモデルチェンジされた昭和50(1975)年以前の前期型だったはずだ。
中古車を買ったのだろう。
車は大好きだったが、
タバコと芳香剤の混じった香りは苦手で、いつも車酔いしていた。

ご近所の車で覚えているのは、ホンダZとホンダシビックだ。
ホンダZには、すごく太った夫婦が、ぎゅうぎゅうになって乗っていた。
シビック(丸型ヘッドライト初代)は隣の家のもの。
なぜか、私はこの車を「敵視」しており、
いつもこっそりフロントバンパーに立ち小便攻撃を加えていた。
あるとき、「けっこう錆びるのが早いもんだ」という会話を聞いて、
目標の達成と、露見を恐れて、攻撃を止めにした。

玩具の多くは、車をモチーフにしたものだった。
またがって乗り回すもの。
  座席部分が上にパカリと開いて、収納スペースがあるやつだ。
ミニカー。いくつかのメーカーがあったが、やはりトミカがお気に入りだった。
あれはドアが開くし、車内も再現されていたからね。
大好きだったのはフェアレディーZである。
通常タイプとパトロールカータイプを、何台も所有していた。
ロングノーズが格好良かった。
フロントライト部分に、カバーがあるものと無いものがあって、
カバー付きの方がお好みだった。いまはカバー無しの初期型の方が好みである。
このカバー部分に、ちょくちょく髪の毛が挟まるんだよな。
お年玉で、少し大きめの完成模型(ラリー仕様)を購入したのを覚えている。
「また、その車なの?」と母に言われた。
2012年3月18(日)

入院2日目。函館中央病院にて。

本日はターゲス(1日に7回採血して、血糖値の動きを見る検査)。
朝から採決失敗で、手の甲に二度の針刺し。痛い。
痩せると血管が見えてくるのだが、体重が増加した状態だと
血管が見えないし、どうやら「逃げる」らしい。

で、結局のところ7回の採血のために、注射針を計10回刺した。
痛い目に遭うと、やっぱり体重は落とした方が良いな、と痛感する。

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◆朝食/ごはん(180g)、味噌汁(大根)、白菜おかか和え、竹輪と高野豆腐の煮物、味のり。480kcalくらいかな。

病棟の廊下に1週間の献立表が掲示してあり、
カロリー・塩分・たんぱく質が明記されている。
これはたいへん参考にある。
しかし、治療食(糖尿病でカロリー制限とか、腎臓病でたんぱく質制限とか)の場合は、
患者によって内容が異なるので、メニュー表とすべて同じというわけではない。

最初の入院時(2009年6月)には、献立表の掲示がなかった。
翌年2月に、五稜郭病院に腎臓の検査で入院した際には、
食事トレイに内容(カロリー・塩分・たんぱく質を表記)を記載した紙が添付され、
より丁寧で使いやすかった。

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◆昼食/食パン(2枚)、たまご焼き、ソーセージ、牛乳(180ml)、サラダ、りんごジャム、減塩しょうゆ。8単位(640kcal)かな。

果物アレルギーなのでバナナは避ける。明日あたりから、果物を止めてもらえるだろうか。
ジャムもそれほど好きではないので手を付けず。
パンはふんわりで、なかなかの美味。


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◆晩飯/ごはん(180g)、味噌汁(白菜)、サバ塩焼き、ふき炒め、肉じゃが、和え物(えのき)。8単位(640kcal)くらいなもんだろう。

自宅できっちり食事制限をしていたときは、
ごはんを150g(3単位/240kcal)で計算している。
品種、精米方法、もしくは炊き方の違いだろうか。
個別表記のあった180gより多いような気がする。

  田んぼ記者らしいことを書いておくと、
  同量の「米」を炊いても、上記の理由で「ごはん」の量が変わるのは本当の話。
  精米方法を例にとると、ふつうの白米よりも、同じ品種の無洗米のほうが、
  同じ体積をはかりとったしても、米粒の数は多くなる。
  つまり、炊きあがった「ごはん」の量(体積)が、無洗米の方が増えるのだ。
  だから、お米の計量カップは、白米と無洗米で異なっているのである。

というわけで、家から持参した電子はかりでご飯の量を量ってみた。

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488g - 319g = 169g

あれ、こんなもんか。むしろ少ないという結果。
あてにならん感覚だ。だから、太ったんだろうけど。





【自分史草稿】-----------

私が生まれた1973(昭和48)年とはどんな年だったのだろう。
世相史年表などにかならず記載されるのは「第一次オイルショック」である。
トイレットペーパーを求めて殺到する人たち、ってやつだ。
当然ながら、私自身にはその当時の記憶などない。

母は札幌出身だったので、母親のいる札幌で私を出産した。
出産の知らせを聞いて、
父は札幌行きのトラックをヒッチハイクして札幌へ来たという。
 フェリーの船員なので、たぶん乗船していた運転手にお願いしたんだろう。

どれがもっとも古い記憶かはわからない。
もしかしたら、
あとで聞かされたエピソードを「記憶」と勘違いしているものもあるだろう。

赤川町(もしかしたら赤川通町だったかも知れない)に住んでいた。
一軒家だった。建て売り住宅だったそうだ。
私が2歳くらいのころ購入して転居している。
父は30歳の手前だ。生活力あるなぁ。とても真似できない。
そういう時代でもあったのだろう。
1975(昭和50)年ころの話である。


大きな地図で見る

たぶん、このあたりだ。
  ここ10年で便利になったもんだ。
  地図を参照するには、図書館でゼンリンの大きくて重たい地図をめくって、
  コピーの申請とか掲載の許諾とか、めんどうな手続きが必要だった。
  その一方で、隣に古い地図を見つけたので今昔を見くらべてみた、
  なんて体験に出会う機会が減るのは、学生にはもったいないことだろう。

いまよりは空き地は多かった気がするが、
当時すでに住宅街だったはずだ。
今は石川町へ通り抜ける道があるが、当時はたぶんどん詰まりだったので、
ほとんど車の交通もなかった。
向かいの家に、少し年下の姉妹がいて、
いつも道路にレジャーシートを敷いて、おままごとしてたそうだ。
幼いころから活発な人間ではなかったのである。
女性好きではあったようだ。
そういえば、ご近所の同年代で遊びに行く家は、
どこも女の子の家ばかりだったな。
そのうちの一人が、後年、同じ高校だったのには驚いた。
(子どもには)おもしろい響きの姓名だったので、覚えていたのだ。
学校で会ったり話したりはしなかったけれども。

自宅前から南へ少し歩くと、
立ち並ぶ住宅の合間に、大きめの空き地があった。
土管はなかったが、ドラえもんに出てくるような場所だ。
近所の子どもたちが集まっていた。年上も年下もいただろう。
みんなと一緒に遊びまわった、という記憶はあまりない。
たしか、青白のスタジャンみたいなものを着ていて、
そいつの生地が「パリパリ」と音を立てるので、
「これはパリでつくったんだ」と奇妙な自慢をしていたのを覚えている。
おそ松くんのイヤミ氏みたいな子どもだ。
そういうところは、35年くらい年齢を重ねても治っていない。
このままなんだろう、きっと。

家には庭があって、白いブランコがあった。
駐車スペースはあったが、車はなくて原チャリ(たぶんカブ)があった。
父が自動車教習所に連れて行ってくれたのを覚えている。
教習車の後部座席に座っていると、父がブレーキを踏むたびに窓に頭をぶつけていた。
教官がそのたびに笑うので、後半はわざとにぶつけていた気がする。
父が車を降りた後で、「そんなに揺れたか」と聞いてきた。
あ、その後部座席に果物が入った網かごがあったのも思い出した。
フルーツナイフも入っていて、それに触ったら痛いだろうな、と怖がっていた。
2012年3月17日(土)

10時30分、入院。
糖尿病では2回目。ここ3年で4回目になる。
いつもの函館中央病院。

食事は糖尿病の治療食。
血圧の薬も飲んでいるので減塩メニュー。23単位(1840kcal)。

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昼食。うまい。
果物アレルギーが伝わっていないのか、リンゴが付いていた。
リンゴと瓜系はいちばん症状が重い(のどが痒くなる)ので残す。

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晩飯。うまい。ビール飲めるくらい。
ただし、ご飯の炊き加減を失敗している。
浸水、水加減、蒸らし、そのいずれかが足りなかったようだ。
胃にもたれた。
また、果物が付いている。




【自分史草稿】-----------

私は1973(昭和48)年の秋に生まれた。長男である。

両親はその前年の12月、松前町館浜にある町民センターで結婚式を挙げた。
父と母の出会いは、松前町へ向かう列車の中だったと聞いている。
この国鉄松前線は、1988(昭和63)年に廃止された。

母は松前の桜を見に行くために乗車したという。
札幌からのひとり旅だった。
そんなこと聞いてみたことはないが、たぶん失恋旅行でもしていたのだろう。
当時の父は、遠洋漁業の乗組員だったはずなので、
出漁期の合間に実家のある松前に帰っていたのかも知れない。
出会いのきっかけは「ナンパ」である。
父は26歳くらい、母は23歳くらいだったはずだ。

父は松前駅で降りたら、メシでも食おうと誘ったらしい。
ちなみに、私は妻を最初のデート的なものに誘うとき、
おいしいソフトクリームを食べに行こう、と声をかけた。ま、親子なんだな。

記憶はあいまいだが、たしか函館から松前まで3時間くらいの車中だと思う。
きっと、父は必死だったと思う。このナンパを成功させるために。
若いってのは良いことだ。

父は松前駅前の寿司屋に連れて行った。
そして、「好きなものを食べてよ」と言い残し、母を店に置き去りにしたという。
戸惑いつつ、しかし、あれこれと寿司を食べるわけにも行かず。
ただただ、カウンターに座り続ける母。
そのころ、父は大急ぎで館浜の実家に向かっていたという。
寿司を食べるお金がなかったからだ。
松前駅から実家のある館浜の部落まで、おそらく10kmくらいある。
どうやって往復したんだろう。
車はないし、バスも不便だろうし、メロスばりに走ったのかも知れない。

どうにかデート資金を確保して、
寿司屋に戻ると、ひと口も食べずに座っている母がいた。
「食べれば良かったのに」と父。
いや、普通は食べないだろう。
というか、席を立って帰っちゃうよな。
そこはやはり、運命というやつなんだろう。
そういうわけで、私が生まれるきっかけとなったわけである。
ちなみに、父は熱々の鍋焼きうどんを注文したらしい。
のちに母は、寿司屋で勢いよくうどんを食べるのが、不思議で仕方なかったと述懐している。

父は結婚に際して、長く家を空けることになる外航船(外国を行き来する船)を降りて、
函館と青森を結ぶ民間フェリー会社に、機関員として就職した。
そして、ふたりは函館市に新居を借りた。
たしか、最初は大森町、続いて末広町とか言っていたはずだ。
トイレの汚いアパートだったらしい。
昨夜、就寝前に看護師を呼び、車イスに乗せられてトイレへ。
あんまり出ない。頻繁に呼ぶのも迷惑だろうと我慢してたら便秘になった。
消灯前の20時半には目を閉じる。
ヘッドホンで音楽を聴きながら、うつらうつら。
手術箇所よりも、神経から来る脚の痺れや痛みが辛い。
ひとつの姿勢では限界がきたので、
針を刺した左側を下にして寝ころんだら、
強盗に襲われて左腹を殴られる夢を見た。
「おまえ卑怯だぞ!」と叫んだところで目が覚めた。
なんじゃそれ。

7時半、朝食。

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◆ご飯(180g) 焼き魚 ごぼうきんぴら パイナップルシロップ漬け ヤクルト 粉飴ムース(150kcal)
◆676kcal タンパク質12.8g 脂質18.0g 塩分1.4g

ヤクルトだとは言え、カロリーのある甘い飲料を飲んだのは半年ぶり。
今朝はじめて朝食を食べたわけだが、
どうやらやっぱり23単位1840kcalではないみたい。
おそらく25単位2000kcalのようだ。
ちょうど、ご飯30g(48kcal)とデザート(150kcal)が多い計算。
食事制限は伝えたはずなのになぁ。なぜだろうと思っていたら、
今朝のデザートにヒントが書いてあった。以下、憶測。

粉餅デザート(米粉でも使ってるかと思ったら原料表示はナシ)の包装に、
「無たんぱく質高カロリー食品(厚生労働省許可特別用途食品)」と記載あり。
説明書きを要約すると、
  無たんぱく質高カロリーの食事が必要な腎臓疾患の方に適した食品。
  医師・管理栄養士の指示のもと、食事療法のひとつとして使用すること。
と書いてあった。なるほど。そういうことか。
他の食品でカロリーを補おうとすると、タンパク質の摂取につながるから、
特殊なデザートを付けているのだ。
冷蔵庫にしまっておいた昨日・一昨日のデザートを確認すると、
たしかにタンパク質は0gの表示だった。

ご飯の多さに関して、田んぼ記者でもある僕なりの解釈。
いわゆる良食味米(地元で言えば「函館育ち ふっくりんこ」や「ゆめぴりか」、著名なのは「こしひかり」(ただし魚沼産)がある)というものは、
米にふくまれるタンパク質とアミロースを基準(目安か)にしている。
タンパク質の低い米がうまいとされているのだ。
良食味米に限らず、現代のお米は昔に比べて低タンパクとなっている。
(タンパクが高いと、ぼそぼそとした食感になる。)
つまり、米食は腎臓に良い。そういうことかも。
あくまで、田んぼ記者的な憶測ですが。

ただ、僕の場合は一方で糖尿病を抱えているから、
低カロリーじゃなくちゃいけない。
ここで食事内容が反発しちゃうんだよね。
まったく、めんどくせー病気を抱えこんじまったもんだ。

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◆五稜郭病院の食事には、このような紙片が添付されてくる。
 これは良い。食事の意味や大切さを学べる。


8時すぎ、昨日の手術担当医が来て傷口を確認。
押されると痛いけど、大丈夫ですとのこと。
普通にしてて良いですよ、と許可がおりる。やった。
さっそくトイレに行く。出た。出た。よしよし。
あとは腎臓内科の医師に許可をもらえれば退院じゃ。

9時55分、本日の担当看護師が顔を出す。
「高山さんって、もしかしてNCVで酔っぱらってる人ですよね?」
体感的には道新に載るよりも影響力あるな。
月に100回リピートしてるってのも要因だけど。
「あんまりお酒を飲まないようにしてくださいね」と笑われる。
めげずに、そのうちどこかの居酒屋で会えたら呑みましょうと、言い返す。

10時13分、事務の人が来て請求書を置いていく。
二泊三日(腎生検)で、56960円(国保三割負担)なり。
お金がないのでカードで支払う。今回は生命保険はおりないし。

10時30分、腎臓内科の医師が回診。おっ、外来の先生だ。
「あれ、頭を丸めました?」 第一声がそこかよ。
「いや、これがデフォルトですけど。」
「痛みますか?」
「いえ、おっつけなきゃ大丈夫です。」
「じゃあ、検査結果は3週間くらいかかるから。次の外来で。」
「ありがとうございます。」

入院終了。

というわけで、昼飯前に退院しました。
これからタクシーで帰ります。
どうか、部屋の水道が凍ってませんように。

んじゃ、次回の入院の日まで。うそ。もういや。


蛇足。
「じんせいけん(腎生検)」と打ち込むと、
初期設定では「人生券」に変換された。
願わくば、窓側のゆったりした席を希望するけど。
それが叶わないなら、どこでもいつでも乗り降りできる「券」が良いな。
みんな、勇気を持って病院へ行こう。検査を受けよう。診断をもらおう。
病気も検査も、先延ばしをするほど痛くなるよ。
大丈夫。ヒマだったり不安だったりするなら、
俺がお見舞いに行って、笑わせてあげるから。
昨夜は21時半には就寝。
そろそろ朝方かと思って目をさますと、
まだ午前2時過ぎだった。
そこから、1時間おきに目が開いてしまう。
眠いのと足が痛いのとで、睡眠と覚醒のせめぎあい。
午前5時、隣のベッドがごそごそいいだしたので、こちらも起きる。
まだ、病室も外も暗いので本は読めず。
(今回は講談社現代新書「性的なことば」だけを持ち込んだ。)
パソコンを開いて、腎生検を検索してしまう。
患者の体験談をいくつか読む。読まなきゃよかった。
腎生検って、「じんせいけん」と読むのだが、一発では漢字変換されない。
「じんぞう・なま・けんさ」と入力して、余計な文字を削除している。
なま・けんさ。戦慄の文字面である。

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◆6時45分。病室の窓から朝焼け。戸井・鉄山方面の稜線。

7時、体重測定。89.6kg。昨日の朝の自宅での計測より増量。
これは体重計の違いと、自宅では素っ裸で測るからだろう。
あと、今朝は用便を済ましていない。
少しのストレスでも便秘になるたちなので。
朝食抜きなので、血糖関連の薬以外は服用してしまう。
歯磨き、洗顔、頭拭き。ほんとうに頭部は坊主にしてから楽になった。
ベッドまわりをいったん整理。手術後は24時間ほど身動きできないため。
パソコンその他のポジションを確認しておく。

はぁぁ、糖尿病入院のときは気楽だったなぁ。

8時前、血圧測定。169の112。高い。
これはあきらかにストレスだろう。
看護師長にシャワーを浴びて良いか聞く。
本来の使用時間は9時からだが、手術前ということで許可をいただく。
誰かに決裁を仰がなくちゃ動かないものは、
ダメだろうか、と悩む前に、口に出してお願いしちゃうのがいちばん。
たとえば、自分は病気じゃないだろうか、と悩んでいるあなた。
悩んでも考えても、僕らは診断も治療もできない。
とっとと病院へ行って、診断をつけてもらったほうが気楽です。

五稜郭病院では、入浴は午前午後で男女入れ替え、シャワーはほぼ自由に。
なんて恵まれた環境なのだろうか。

排便。なかなか快調に出た。
いま体重測定したら、さっきより500gは軽いはずだ。
8時半、検査担当の医師がベッドに来る。
また違う先生だ。不安にはならないけど、ちょっと混乱する。
そのつど、痛いのコワイんすけど、よろしくお願いします。と頭を下げる。
「手術後、1時間は絶対安静で。
 そのあとは、トイレに車イスで行けますから。
 基本はベッドで仰向けです。」
おお、ありがたい。昨日の嘆願が通じたようだ。
これで少しストレスが減った。

まだ検査まで時間があるので、ひと仕事しようかと思ったが、
いまいち手につかないので、iPodで音楽を聴きながらストレッチ。
さ、あと30分。
看護師が来て点滴を開始。これは化膿止めのはず。
「検査はあっという間ですから。」
そうあってほしいものだ。
立て続けに、医師の回診。また、別の医師が来た。
「検査これからですね。がんばってください。」と言って去る。
がんばれ、か。まぁ、他に言い方がないよな。

なんだか左腕が冷たいなぁと思っていたら、点滴の薬液が漏れてるじゃん。
看護師に伝えると、「あらショック」と。俺もショックだよ。
処置し直しているときに、別の看護師が来て、30分ほど遅れると伝言。
「ひとつ前の検査が手こずっているみたいです」
ああぁ、やっぱり手こずることがあるんだなぁ。
手足に嫌な汗。それなりの苦行。

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◆手術室へ移動直前。ベッドの上から窓からの風景を撮す。良い天気だなぁ。

11時、そろそろ行きますよ、と看護師。
覚悟を決める。うそ。逃げ出したい気分。
病室のベッドのまま手術室へ移動していく。
思いのほか移動速度が速く(寝転がっているので体感速度が速い)、
高速でコーナーにつっこむから、思わず笑ってしまう。

【手術中】の赤ランプをぼんやりと見ながら(メガネを外してたので)手術室へ。
SPITZ「涙がキラリ☆」を女性ボーカルでカバーした曲が流れていた。
好きな曲なので嬉しい。
青系の手術衣をつけた看護師・医師にあいさつされる。
テレビでしか見たことがなかった7つ目のでかい照明に震える。

手術台にうつぶせになって、まずはエコーで腎臓の位置を確認。
ぐりぐりと機器を押しつけられるも、なかなか腎臓が見えてこないようだ。
「深い。」「8cmくらい。」「ここか。」「うん。」「あれ?」
とかなんとか会話が聞こえてくる。
このまんま、腎臓が見つからなくて、検査延期にならんだろうか。
もうちょっと痩せてから来てくださいね。とか。
本気でそんなこと考えていた。逃げ出したい気分がつのるつのる。

10分ほどして、熟練した医師の手で腎臓は発見されたようだ。
てっきり(勝手に)右後ろを刺されるかと思っていたら、左に刺しますと宣告。
そっか。腎臓ってふたつあったっけ。
点滴が追加される。手のひらも足の裏もびっしょりと汗。
背中全体を消毒される。いよいよ来る。
「それでは、腎臓なんたらかんたら術式を始めます。よろしく。」
まずは局所麻酔。「プツっと痛いですよ。はいプツ。」と注射。
刺された瞬間は少し痛いが、すぐに麻酔が効いてくる。
ふたたび一瞬痛くなり、また痛みがすっと引く。
看護師が「痛いですよね。奥まで麻酔を効かせてますから。」とフォロー。
背中を撫でてくれたのが嬉しかった。
これ系の痛みは、うん大丈夫。がまんできる。
恐れているのは、腎臓に針を刺すという想像しがたい、
なんかこう、ぞわぞわするような痛みというか感触なのだ。

「いま痛いですか?」。医師があらためて聞く。大丈夫です。
「では、三回くらいパチンッという音がしますが驚かないでください。」
腎臓の組織を採取するための針が刺された、らしい。感覚ナシ。
エコーの機器を押し当てつつ狙いを定める。
「ではいきますよぉ」。来る。来る。来る。
パチンッ。
あれ、痛くねーや。圧迫感もナシ。
いやいや、角度を変えると痛みがあるのかも。
しばしごそごそとしたあと、ふたたび「いきます」の声。
パチンッ!
おろ、痛くねーぞ。手足の汗がひっこみ始める。
パチンッ!
はい。おしまい。
針を刺した部分をぐいぐい押して止血。

「すんません。質問しても良いですか?」
「どうぞぉ。」
「あの、やっぱり太っていたから、腎臓が見つけにくかったんですか?」
「いいえ、筋肉のせいですね。筋肉が厚かったので。」
へー。そんなはずないのに。ものかきとして恥ずかしいな。
「脂肪は?」
「いや、脂肪もありますが。」
「くくく。」
という会話をして手術室を出る。
手術中に頭にかぶせられた帽子を記念にください、と頼んだら
「血液が付着している可能性があるので。新しいのを差し上げますね」
と新品をもらう。コレクションにしよう。

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◆手術中にかぶっていた帽子(同型)。クラゲみたいだ。

病室に戻ったら12時10分すぎ。約1時間の出来事。
なんだか疲れて、ヘッドホンで音楽を聴きながら昼寝。
うつらうつら。検査が終わって、ほっとして気分がよい。
緊張が解けてくると、じわじわと足の痛みがぶり返してくる。

15時20分、看護師が昼食を持ってくる。
「ベッドを持ち上げますね」。説明なしに動かし始めるので、
枕元の本やら携帯やらがドサドサとずり落ちる。
約70度くらいまで身を起こし食事。
「点滴の針は後で抜きに来ますから。邪魔でしょうけど食事してください。」
なんだよ。抜いてくれよ。すぐに。刺さってるだけでストレスなのに。
なんだか血が逆流してて、あんまり良い気分じゃない。

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◆ご飯(おにぎり2個180g) 白身魚カレー風味揚げ ホウレン草のソテー 千切りキャベツ(ドレッシング) サツマイモの煮物
◆679kcal タンパク質15.8g 脂質22.1g 塩分1.3g

米と芋か。やっぱり炭水化物が多めのメニューに感じるな。
芋は残して、おにぎりも2口ほど残す。
味付けはちょうど良い。甘すぎず辛すぎず、調味料に頼らない味に感じる。
さて、食事終了。
こちらは身動きが取れないので、あとで来る、と言った看護師を待つ。
20分ほどして担当の看護師。
「ばたばたしてて。遅くなりました。」
仕方がないことだけど、
できれば点滴の針や管から解放された状態で食事がしたかったよ。

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◆こういう状態。

食後、このブログの続きを書き始める。
1時間ほどしてお尻が痛くなったので、ベッドを倒して姿勢を変えてもらおうと思い
ナースコールを探して愕然とする。手元にないじゃん。手が届かないじゃん。
あーっ、もーっ、これくらい配慮してくれよ。
お隣のご家族に声をかけようかとも思ったが、
なにやらガンの転移を告知されたらしく家族会議中だもんなぁ。
見回りも来ないし。夕食の配膳までガマンだなぁ。

17時前、北日本海運の高橋さんから電話。
「サイトの更新を・・・」
「実は入院してまして」
「うそ? 糖尿で?」
「いえ、腎臓の検査入院なんですけどね。」
「大丈夫なの?」
「いや、もう、呑みに行きたいっす。」
ルール違反だが、ベッドの上で小声で会話。許せ。

続けて、事務所お隣の星野さんから電話。
「あれ、電話は通じるんだ。」
「いやいや、手短にお願いします。」
「LANケーブルを持っていこうか?」
「あー、明日には退院するんで大丈夫です。」
持つべきものは隣の社長である。

18時、夕食。さっき食べたばかりだけど、片づかないので食べてしまう。

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◆ご飯(180g) おでん おひたし(もやし) サラダ(レタスとミカン) ゼリー(150kcal)
◆649kcal 11.6g 脂質15.9g 塩分1.1g

ゼリーは残して持ち帰ることにする。ゼリーのカロリーで、おでんを1つ増やしてほしい。
お向かいのお膳を見ていて気がついた。
俺には汁腕がないんだね。なるほど。そいつで、さらに塩分を抑えてたんだ。
ご飯をあましてしまうのも、そこに要因があったようだ。
でも、味噌汁はほしいなぁ。

あー、足が痺れる。
手術した箇所は、いまのところ特に痛みもナシ。
その辺は鈍感で良かった。

つーわけで、今日はここまで。
明日まで安静にして、朝の検査で出血などなければ午前中には退院。
夕方には取材アポイントも入っているし、順調に回復しろよ、俺の腎臓。


ツイッター経由で励ましのメッセージをいただいた皆さんに感謝。

プロフィール

高山潤
函館市および道南圏(渡島・檜山)を拠点に活動するフリーランスのライター、編集者、版元、TVディレクター、奥尻島旅人。元C型肝炎患者(抗ウィルス治療でウィルス再燃、インターフェロン・リバビリン併用療法でウィルス消滅で寛解)、2型糖尿病患者(慢性高血糖症・DM・2009年6月より療養中)。酒豪。函館市(亀田地区)出身、第一次オイルショックの年に生まれる。父母はいわゆる団塊世代。取材活動のテーマは、民衆史(色川史学)を軸にした人・街・暮らしのルポルタージュ、地域の文化や歴史の再発見、身近な話題や出来事への驚きと感動。詳しくはWEBサイト「ものかき工房」にて。NCV「函館酒場寄港」案内人、NCV「函館図鑑」調査員(企画・構成・取材・出演・ナレーション)。


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